あらためて 虎石墓についてー 

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28日報恩講にお参りし、祖父母・叔父のお墓に手を合わせてきた。照福寺住職家の「虎石墓」が、後背の山から本堂側に移転してあった。かつて、この墓について以下のように書いたことがある。

 三 葬送 無墓石制

1 四門 虎石墓 無墓石の地

虎石墓と四門

泰澄ゆかりの輪島の神田山 輪島市石休場(いしやすみば)町地内に、上野山と呼ばれる舌状丘陵がある。そこには地名の由来となった、泰澄が一休みしたという石が残されている。
 泰澄は、かなたに見える神奈備(かんなび)(=霊山)の様相を呈する鉢伏山系神田(じんだ)山に分け入り、そこに八華山補陀落(ふだらく)寺や粉川(こかわ)山観音寺を建立したという。補陀落山は天竺(てんじく)南方にある観音浄土。日本では紀州熊野あるいはその南方海上が名高い。
 両寺は現存していないが、浄土真宗の幾つかの寺は、山から輪島市稲舟や杉平へ移り、さらに中心地へ移転したとの伝承を持つ。また、曹洞宗横地の粉川寺は当時の名を継承しているし、石休場町の浄土真宗上野山照福寺が建つ地は、神田山から移った所であるという。この照福寺に二つの注目すべき遺物がある。
 照福寺裏手の山に、歴代の寺関係者の墓があり、「虎石墓」と刻まれている。
墓石は江戸時代末のもので、台座の石が虎石と称されていたものらしい。
 泰澄の腰かけ石など、高僧や英雄に付会されて伝えられる石は、往々にして神仏の示現する霊地や祭祀(さいし)場であった。一方虎石の虎という名は、曽我十郎の妾(しよう)「大磯の虎」に代表される、遊行比丘尼の称であったとされ、女入禁制の霊山へ登ろうとした比丘尼が化した石だと伝えるものに、虎石と呼ばれるものが多い。
 すなわち、ここには真宗以前のこん跡が見られ、さらに女人結界石(虎石)の下方に寺が位置することにおいて、性による区別を脱却しようとした民衆宗教の一面目をも感じとれる。
四門 他の一つは、おそらく全国的にも例の少ない、葬儀における「四門(しもん)」があることである。宗教史でも民俗学のうえでも、寺院自身の葬儀についてはあまり語られない。いわば、盲点ともいうべきところに存在していた。
「四門」額と出合ったのは、十三年前、照福寺前住職の葬儀に.参列した折のことであった。
 釈迦出家の機縁となる四門出遊の説話、、「いろは歌」に訳されたとされる四句偈(げ)など、仏教と四との結びつきは深い。四門の場合、もちろん仏教化されてはいるが、仏教以前のものが、その背景にあるとされる。四門とは、葬儀に際して四方に立てる門のことで、古代の葬制の殯(もがり)にその元をたどることが出来る。
 死者の復活を願って死音を安置する、つまり通夜の起源とも言うべきものが殯。この殯の場と俗界とを区別するために設けた忌垣(いがき)の四方に、門を設けたのが四門と言われるものである。
 のちに密教で盛んに用いられ、四門として発心・修行・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)の額を掲げた。古いものでは、中世の具体例を「熊野那智曼茶羅(まんだら)」によって見ることができる。
 この四門の葬制は現在も残されていて、近県では庄川上流、岐阜県大野郡での例が、富山県の民俗研究者・高谷純夫氏によって報告されている。棺を担いでグルグル門を回るという所もあり、死霊がもとの所へところへ戻らないようにするのだと言われたりする。が、死者に発心から涅槃への過程を歩ませる儀礼と考えるのが妥当であろう。
 照福寺の四門は、本堂の四方、本尊側に「教門」、蓋(がい)(=ひつぎ)に向かって左測に「行門」、右側に「信門」、蓋側に「證門」と書いた額を掲げる。親鸞の著した「教行信証」を四つに分け、門としているところから、これも真宗のもつ世界を巡って、浄土へ還っていくものと意識されていたのだろう。
 この四門は、中陰(四十九日)を過ぎると取り外され、同寺には四代前からの四門額が保存されている。ここにも、前真宗的なものが生き続けている。
 虎石・四門の事例は、神田山ろくの歴史、風土を抜きにしては考えられない。さらに同市の河原田川を約二・五キロさかのぼると、隠野(こもりの)を意味し、こういった境界と深いつながりを持つ熊野という集落がある。
 泰澄・虎・神田山・熊野・四門を結ぶ一つの糸は、中世的なものをよみがえらせ、語りかけてくる。四門のような特異な例は見いだせなくとも、このような世界はあちこちで気づかされるはずである。
 ある地域全体に流れるものが見えてこそ、私たちは地方を見なおし、そこに生きる意味を考えることができる。しかし、近年の観光化の波は特殊な個、例えば祭礼のある協分をショー化していくような傾向を拡大させた。その結果として、それをはぐくんできた歴史風土を切り捨て、画一化し、生活の伝わってこない場へと押し流しているように思えてならない。
 非日常やうるおいを求めて旅する、現代の遊行人に、神田山ろく的世界が、より豊かなしみじみとした問いかけをしないものであろうか。
[出典]「奥能登に見る真宗以前―古代葬制継ぐ四門額」北國新聞「文化」欄 昭和五十六年(一九八一)五 月二十一日

祖墳上の虎石

 親鸞聖人の「念仏の息たえましましおわ」られた禅房は、「押小路南、万里小路東」(御伝鈔)にあった。そこには聖人が愛でた「虎石」があり、この故実により一帯は虎石町(中京区)名を名告っている。
 虎石はそのものは、聚楽第を経て、寛文十年(一六七〇)に造営された東大谷(大谷御坊、大谷祖廟)の祖墳上に置かれた。宝永六年(一七〇九年)のことである。先に書いた石休場照福寺住所家の虎石を、山岳信仰と関わる「虎石」と見たが、その後、各地で、祖廟を模した形の墓上に虎石があるのを知った。虎石墓があるのは、住職家の墓石で、講師・擬講など本山と出入りすることの多い僧を輩出した寺庵に多い印象がある。以下、虎石墓があった墓地をあげる。住職家とはいえ、個人家の墓なのでエリアで記す。
 鶴来町親鸞聖人廟所(九基)、白山市松任(四基)、金沢四十万霊寶山(蓮如上人御墓所)、白山市粟田、金沢市米泉、宝達志水町中能登町志賀町(二個所)、飛びすぎるが高山市内にも一基あった。

 

 以上『とも同行の真宗文化』324頁~327頁

 

「虎石墓」の成立時期を考える

大谷本廟にある「虎石墓」をまねて末寺(住職家)墓石に虎石を安置してあるのを時々見かけるが、大概が学僧などで本山に出入りした経歴を持つ住職を輩出した寺庵である。

今度28日に、あらためて照福寺「虎石墓」にお参りしたのを機に、そのことについて考えてみる。 

常徳寺三代の学僧たち
(二) 義観、得住そして玄寧
 (前略)常徳寺(眞宗大谷派・富来鹿頭)十五代を継いだ得住は加賀の人で、在家出身だった。
 十五才で上洛し、学寮に学んだようである。常徳寺の経蔵の中にこの人が十五才の時の深励の講義の聴講録『選択本願念仏集』がある。
 また十七才の時には『大乗五葱論』を読んでいる。末尾の頁に読了の日付を得住が自から入れていることでそのことが知られる。この書はインドの天親の著で、西暦六四二年に玄奘三蔵によって漢訳されたものである。
 得住の師は霊?だった。霊?はとりわけ哲学的解釈の学風を持った学僧で晩年は失明したが、著しくおとろえていく視力の中で学問をきわめ、「講師」職を拝命した。得住はこの霊?門下の鬼才といわれた。
 この得住は義観の安居講義の二年前(天保六年、一八三五)に安居で講義していた。講義は『入阿毘達磨論』だった[註「真宗大系」第三十七巻、『学寮講義年鑑』二百十四頁]。これは具舎の学問の書である。そして現在も仏教学の研究において重要視されつづけている書物である。天親の著述とされるが学界ではいまでも定説はない。そしてインドで成立したとされるが、原本がどの言語で書かれたか不明である。玄装三蔵によって六五八年に漢訳されている。仏教の経典や哲学書には、よくこのようなことがある。原典が失なわれているが、他の言葉に「訳されたもの」が残っているというのである。
 さて得住の常徳寺入寺の時期はさだかではないけれど、義観の死去の年は、得住四十七才だった。あるいは得住は五十才頃までに入寺しているのかも知れない。
 得住は実は義観の死去の翌年(天保十年、一八三九)と翌々年(天保十一年、一八四〇)二年つづけて安居の講席を果していた[註『学寮講義年鑑』二百十六~二百十七頁]。そして天保十三年(一八四二)には「擬講」に転席(昇進)している[註『大谷派学事史』七十三頁]。 得住は、「自身の中で、ものを生み出す精神の時期」に常徳寺へ来たことになる。西欧の心理学では人間の五十才代を「志向の著しさという」という場合がある[E.H.Erikson"Identity and the LifeCycle" International University.N.Y,七十三頁 ]。得住は門徒の人々にとって義観の死をのりこえさせてくれるほどの人物だったのかも知れない。この得住はやがて自分の門下生を養子として常徳寺へ入寺させた。玄寧であった。
 玄寧は輪島の照福寺の息男だった。そして得住との年齢差は二十才であった。
 この人もまた安居の講席を果たす秀才だった。それは明治元年(一八六八)の夏の安居だった。玄寧がおこなった講義は『大日経住心品口之疏紗』全八五巻である[『学寮講義年鑑』二百三十四頁]。『大日経住心品疏』の註釈書であった。実は常徳寺の経蔵の中に、この玄寧の蔵書がおよそ半分を占めるのではないかとおもわれる。そしてその蔵書の特徴は、養父得住の「講義録」の清書、また玄寧自身の著述『因明正理論門論聞書』が目を引くし、安居講義の問題意識からか真言宗密教に視点をむけていた人のようである。加えて明治初期の人であったためとおもわれるがキリスト教批判の書物に玄寧の蔵書印がある。
(高畑崇導著『常徳寺三代の学僧たち』平成二十年、常徳寺刊)

 補注・考察
 高畑崇導はマクギル大学(カナダ)大学院修了 歴史哲学、宗教学専攻。著書に『北陸の学僧碩学の近代 存在証明の系譜』(2018年北國新聞社刊)など。
高畑さんに直接お聞きしたところでは、虎石墓のある照福寺から常徳寺に入寺した玄寧は照福寺次男で、照福寺を継いだ長男静継、三男玄風(米沢へ)、四男玄和があった。玄和は飯田西勝寺に入寺しており、西勝寺書上に「玄和 西勝寺第十七世 安政七年庚申年ヨリ文久三癸亥年マテ住職四ヶ年」、系譜に「為物印釋静祢玄和法師 文久 七月九日 照福寺?後見入寺」とある。
 西勝寺は当寺で玄和は何台か前の住職のようだが、高畑氏の文に出てくる天保頃から明治にかけた時期に「虎石墓」が照福寺住職家墓として建てられのだろう。
 わたしが子供の頃から知り、「虎石墓と四門」に書いた頃は、本堂後ろの山が墓地でその一番奥まったところに虎石墓があった。
 なんとなく彫りもはっきりせず、質素な墓だと思っていたのだが、この二十八日に改めてその場所に向かおうとして、境内はずれの納骨堂近くに移転してある墓に出会った。
 改めて光の当たるところで見ると石もいいし、彫りも薬研彫りに近く、堂々たるものである。元地にあるとしたら墓石が相当欠けているに違いないとの思いは、見事に外れ、さすが「虎石墓」を建てるほどの本山とつながりのある学者を輩出したお寺だったのだと改めて感心した。
十一月二十七日~二十九日、常徳寺さんで報恩講法話に出向する。
昔の話で、特に私たちのつながりはないが、あらためて法縁を語り合ってきたいと思っている。

 

 

 

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