1『妙好人 一茶』ー『妙好人千代尼』に描いた一茶 

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一茶 俳諧

妙好人千代尼』(2019年1月、法藏館刊)には、元禄期の千代尼と化政期の違いはありますが、同じ妙好人の道を歩んだ一茶についてもかなり取り上げました。

以下、その文を紹介します。

 仏教語独自の読みをする言葉が多いので、『妙好人千代尼』では多くの語句にふりがなを付けましたが、ブログでは煩雑になりますので省略します。<>の頁は『妙好人千代尼』の頁です。

 

○ 朝顔やつるべ取られてもらい水
 この句を・多くの評者は千袋の優しさとか、逆にやさしさが勝りすぎているなどととらえていますが、千代尼の句には、より広く深い世界があります。
というのも、さまざまな立場の人が、千代尼の句を高く評価し、影響を受けているからです。
 たとえば、小林一茶(一七六三~一八二七)がわが子に先立たれた時、千代女が子の弥市に先立たれたときに詠んだと伝わる
 蜻蛉釣りけふはどこまで行た事か(一茶は「事か」と引用)
の句によって、慰められ癒されています。<4~5頁>

    ※「詠んだと伝わる」が需要。


○現今、俳句の愛好家は多く、講座や行事の場など、どこへ行っても、かならず
といっていいほど俳句を楽しんでいる方々に出会います。
 俳人の集まりなどで話す機会があれば、千代尼の法名は素園で、親鸞聖人五百
回御遠忌の時の句がありますとか、小林一茶『おらが春』の最後に載る
 ともかくも あなた(=阿弥陀さま)まかせの年の暮れ
の前文は、本願寺八世蓮如(一五一五~九九)作の「御文」と同じ体裁で書かれており、「あなかしこ、あなかしこ」とまとめられています。このことからも分かるように『おらが春』は信心の書です、などと紹介すると、参加者は一様に驚かれ、多くの方が、よりその世界を知ろうとなさいます。しかし、紹介できる手ごろな書籍がなく、千代尼や一茶真宗の篤信者である「妙好人」であることさえ知られていないことに、物足りない思いを抱き続けてきました。<8~9頁>

 

○同じ信心の道を歩む法友のことを、真宗では同朋・同行といいます。その同行の中でも、特に篤信の人々をあらわす言葉として、初めて「妙好人」を用いたのは、石見の仰誓(一七二一~九四)でした。
 仰誓が、同時代人の大和の清九郎を訪ねた時、念仏を喜んでいる姿に感動し、さらに各地の同行を訪ねます。その言葉や事蹟を書き留(と)めておいたのを、『妙好人伝』の名で刊行しようとしたのが文政元年(一八一八)のことでした(実際の刊行は天保十三年(一八四二)。 ―中略―

 この『妙好人伝』の刊行予定だった文政元年(一八一八)は、 親鸞聖人五百五十回御遠忌の七年後で、御遠忌によって国中に広がった教えが、さらに隅々にまで行き渡り、生活の一部になっているころでした。

 千代尼が世を去って四十四年、一茶は五十六歳で、翌年『おらが春』を出す年に当たります。<17~18頁>


○昭和二十一年(一九四六)には、藤秀璻が『新撰妙好人列伝』をまとめました。そこには五十三人の妙好人が紹介されています。
 大和清九郎、三河お園、石見善太郎、讃岐庄松、石州才市などの著名な妙好人のほか、親鸞以前の西行笠置寺真言宗京都府相楽郡)の解脱、蓮如の弟子である赤尾の道宗、さらに越後の良寛や、教学の第一人者である香樹院徳龍、一蓮院秀存、それに加賀(白山市松任)の千代尼、俳諧寺一茶(小林一茶、そのころよく知られていた貝原益軒、太田垣蓮月、伊藤左千夫などを取り上げています。<22~3頁>

 

○『妙好人伝』は、蓮如九世の孫である仰誓が、法座・説教の場がほぼ日本中を覆い尽くした文化・文政期(一八〇四~三〇)に、法座要請の中でまとめたものです。
 また、藤秀璻の『新撰妙好人伝』は、戦後まもなく、人心が荒廃している世情にあって、人々が指針とすべき像を妙好人に見ています。そのため、多くの妙好人が紹介され、そこには、著名な俳人である千代尼と一茶も取り上げられています。<25頁>

 

新渡戸稲造アメリカ滞在中に日本人の特性を紹介した『武士道(BUSHIDO,THE 
SOUL OF JAPAN)』を著しました。
 「第十一章 克己(こっき)(Self Control)」の中で引用したのが千代女の
  蜻蛉釣り 今日はどこまで 行ったやら
でした。自分の感情を抑え慎む「克己」を、稲造は千代女の句に代表させたのです。
 そこには次のように記されています(参照・櫻井鷗村訳)。
 深く甚だしい悲しみ嘆きに沈んでいる友を慰めるとき、必ず、友は赤く泣きはらした目、頬を伝う涙の中にあっても、にっこりと微笑みながら彼を迎えるであろう。そして、「人生には悲哀が多い」「会う者は必ず別れる(会者定離)」「生あるものは必ず滅びる(生者必滅)」などと答える。
 ここに一人のもっとも哀切きわまりない母がいる。その子が亡くなったのを悲しみ、いつものように「蜻蛉釣り」に行っているものと想いみなし、やるせなくもだえ苦しむ悲みを慰めようと吟じた句
   蜻蛉釣り 今日はどこまで 行ったやら(千代)
 この有名な句は、まず千代尼没後、四十一年の文化十三年(一八一六)に、
   わが子を失ひける時、
  蜻蛉釣 今日はどこまで 行つたやら
その情態もまた思ふべし(『俳家奇人談』、竹内玄玄一の遺稿を子の蓬蘆青青著・編集)、と紹介されました。
 そして、その三年後の文政二年(一八一九)には、小林一茶が俳文集『おらが春』にこの句を引用しました。
 一茶は、生まれて間もない子を次々と失い、その年、さわらびのように小さい手を合わせ、「なんむ〳〵(南無〳〵)」と唱える声が「しをらしく、ゆかしく、なつかしく、殊勝」の可愛い盛りの二歳の長女さとにも先立たれます。
 一茶も、さすがに
  露の世は 露の世ながら さりながら
と、呻きの句を詠むしかありませんでした。
 露の世であることは私(一茶)にはいやほど分かっています、老少不定蓮如作「白骨の御文」)であることも理解しています。けれど…と、「露の世は」の句をしぼりだし、同じ悲しみを生きた先人の作から十の和歌や句を選んで『おらが春』に引用します。そこに、
   子をうしなひて
  蜻蛉釣り けふはどこまで 行た事か かゞ(加賀)千代
が紹介されているのです。<34~8頁>

 

一茶『おらが春』を著わした文政二年(一八一九)といえば、盛大に営まれた親鸞聖人五百五十回御遠忌の八年後にあたり、その高揚が続いている時期でした。
 五百五十回忌直前の文化六・七年(一八〇九・一〇)には、加賀藩歓喜光院(大谷派本願寺第十九世乗如の院号)殿御崇敬という門徒主催の大きな仏事を、あまりの盛り上がりの故に禁止しています。文化八年には近衛基前と達如の発願、冷泉等覚(為泰)の出題による「開山親鸞聖人五百五十回忌 追慕五十首(貴族四十八、大僧正二)和カ(金+哥)」の奉納があり、この頃、東本願寺からは『真宗仮名聖教』が刊行されています。『おらが春』から三年後の文政五年には、本山から各寺の講などに宛てた「御消息」の中で、多くの寺院に行き渡った最大文字数の「世々の先徳…」から始まる御消息が発給されます。

 この「御消息」にも、溢れんばかりのエネルギーを抑えようとする文面が見られます。それでもなお、高揚した時代を物語るかのように、信心を何としても自分のものとせよ(獲得)との教えが、文面に躍動している消息となっています。<39~40頁>


和泉式部は、播磨国書写山姫路市)の性空(九一〇~一〇〇七)に次の歌を託し、救いを求めました。
  くらきより 暗き道にぞ 入(い)りぬべき
      はるかに照らせ 山の端(は)の月(『拾遺和歌集』)
  迷いは混沌となる一方で、ますます深い闇へ吸い込まれそうです。その
  闇の先、西方の彼方から私(式部)をかすかに照らす細い月明かりが見えま  す。どうか、性空上人、慈悲の月光となって、私(式部)をお導きください。

 この歌は、初めて勅撰集に入った式部の歌で、『仏説無量寿経』の「従苦入苦、従冥入冥(苦より苦に入り、冥きより冥きに入る)」や、『法華経』の「従冥入於冥(冥きより冥きに入る)」を踏まえています。
 千代尼には、やはり和泉式部のこの説話を踏まえた句があります。
   くらき夜を 何とまもるや 女郎花

 また、小林一茶は、「荒凡夫のおのれごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さえたのむ程のちからなく…」(『文政句帖(九番日記)』巻頭)と、和泉式部の歌を引用して五十九年の過ぎし日を振り返っています。<68~9頁>


真宗門徒の日常では、『正信偈』と念仏・和讃を読誦しますが、その和讃のはじめが、「浄土和讃」の第一首目
  弥陀成仏の 此の方は 今に十劫を 経たまえり
  法身の光輪 際もなく 世の盲冥を 照らすなり
です。小林一茶は、この「弥陀成仏の 此の方は」(七・五)に、「涼しやな」の五文字を付けて句にしました。
  涼しやな 弥陀成仏の 此の方は 一茶
 讃嘆・感動をなかだちとして、和讃(今様)と俳句は、このようにそのまま行き来しあいます。<105頁>


○安心
  ともかくも 風にまかせて かれ尾花
 端書きの「安心」は、「あんじん」と読みます。
 「安心」とは、阿弥陀仏の願力(他力)によって、必ず往生を遂(と)げると信じ、何事にも誘惑されたり動揺させられたりすることのない堅固で不動の信心をいいます。また、信心決定のこころのありよう(相)だったり、信心と同じ意味に用いることもあります。
 私たちからすれば、安心は、本願他力にうながされてそれをいただくのですから、真宗では「ご安心を戴く」ともいいます。「御文」に多くの用例が見られます。
その「御文」で、安心の内容を最初に記しているのは「猟漁の御文」(第一帖第三通目)といわれる御文です。現代語訳で紹介します
 まず、当流安心(あんじん)の趣旨は、こころのよくないのも、惑い妄執の心がおこるのも、やめろ・無くせというのではありません。どのような勤めであろうと普段通りに働いて生き、その日暮らしの中で惑ってばかりいる私どもを、助けるぞとお誓いくださっているのが阿弥陀如来の本願なのです。
 その本願を深く信じて、ひたすら弥陀の大悲にすがり、たのみます、南無と思うのです。
 その思いがまことならば、必ず弥陀如来は助けてくださいます。
 その上には、どのように心得、どう念仏申すべきかといえば、浄土往生はひとおもいの信心によって確かなものになっているのですから、これからは、この世のいのち尽きるまで、恐れ多くももったいない弥陀如来の御恩を、ただただ報謝し、声に出して念仏を称えることです。
 これを、安心がはっきりした信心の行者というのです。あなかしこ、あなかしこ。
 「安心」とは、まず一念の信(信心)、そして、御恩(仏恩)報謝の念仏を称えることと示しています。
 また、『蓮如上人御一代記聞書』(第三十条)には、「一念の信心を得て後の相続というのは、特別のことではありません。はじめに起こった安心が相続され、尊い一念の心が末まで通るのを、憶念(おくねん)の心つねにとも、仏恩報謝ともいうのです」とあります。
 本願を信じ、喜びの中で仏恩報謝の念仏を称える、その安心の姿を、千代尼は枯れ尾花が風にまかせきって揺れている姿に見たのです。

 「ともかくも」は、どうであろうといかなる事態であろうと、それでいい、というはっきりした覚悟です。

 千代のこの句と並んで著名な句に、小林一茶
  ともかくも あなた任せの 年の暮(『おらが春』)
があります。
 あなたとは貴方、文字通り尊い方で阿弥陀さまのことです。どんな年末であろうと、ただおまかせです。どうあがいても自力ではどうしようもない、そこにいたって本願他力の「たのめ」のうながしが聞こえてきます。一茶の他力にまかせきった境地がうかがえます。

 千代尼の「ともかくも」の句にも、根本に「あなた(阿弥陀仏)」があるので

すが、枯れ尾花に対する現象面での働きは「風にまかせて」の風です。
 風は目に見えず、働きとしてしか知る事が出来ません。その風の働きを詠った詩があります。イギリスの女流詩人クリスティーナ・ロセッティ(一八三〇~九四)の「誰が風を見たでしょう(Who has seen the wind?)」です。

   誰が風を見たでしょう

   誰が風を 見たでしょう
   僕もあなたも 見やしない
   けれど木の葉を 顫わせて
   風は通りぬけてゆく


   誰が風を 見たでしょう
   あなたも僕も 見やしない
   けれど樹立(こだち)が 頭をさげて
   風は通りすぎてゆく (訳、西条八十)

 ほかに千代尼が詠んだ風・柳の句を四句あげます。
  すゞしさや ひとつ風にも 居所
 結ふと 解ふと風の 柳かな
 秋風の いふまゝに成 尾花かな
 たつ秋の 道とおもふは すゝき哉
千代は、自然そのものになっているようです。

 そして、一茶親鸞作「弥陀成仏の 此の方は いまに十劫 経たまへり 法身の光輪 きわもなく 世の盲冥を 照らすなり」(「浄土和讃」)の出だし部を句に詠み込んだ
 涼しやな 弥陀成仏(じょうぶつ)の 此の方は
ときおり涼風が通り過ぎていきます。<162~6頁>

 

以上です。

 

 千代尼をとも同行の視点、妙好人としてとらえたのは『妙好人千代尼』がはじめてですが、一茶の方は、資史料が膨大なこともあって真宗からの視点でとらえている学者さん方が何人かおいでになります。

  わたしが引用した一茶は、『おらが春』と『文政句帖』からですが、一茶には『父の終焉日記』と呼ばれている一茶の信心がうかがえる優れた日記文学あるいは日記風談義本があり、真宗史家は主としてその著から一茶の信心を見ています。

 わたしが、なぜその著作に触れていないのかは、次回に書きます。