西勝寺同朋婦人会―若山庄散策―
若山庄は皇嘉門院聖子に寄進された荘園。
聖子の弟が、法然上人「選択本願念仏集」を著すきっかけを作った九条兼実―法名円照、
さらに、慈鎮(慈円)和尚も弟。
慈鎮和尚は親鸞聖人の御髪剃り執行僧。越天楽今様の歌詞をお作りになっている。
荘園末期の頃は、一族の広橋兼郷が実質領主になっており、蓮如上人は兼郷の子として兼の一字を頂いて兼寿名を名乗り、お髪剃りを受け、蓮如と名乗った。
吉崎においでた頃には、父の荘園・若山庄から有形・無形の援助があったであろう。
この散策は、真宗(史)の旅でもある。
お朝事(朝の勤行、御文拝読)を終え、
いよいよ出発。8時20分。
本堂前で。
若山庄四至、概説を語りながら、バスは最初の目的地。
野々江本江寺遺跡へ。
木製板碑、木製笠塔婆が出土したのは2007年のことだった。その年の12月25日に記者発表が行われ、その後、保存処理がされた。
処理が終わり、平成26年(2014)1月10日に県指定となった。
県埋蔵文化財センター保管されており、発掘地にそのものがないため、だれもこのことを知らない。
いつもその道を通るとおっしゃる運転所さんも、なんか棒が立っているくらいの認識でしかなく、今日初めてすごい発見があったことをお知りになった。
最近『珠洲市の文化財』の改訂版が出たが、木製板碑・笠塔婆には触れていない。
正院出土の県指定珠洲焼も石川県歴史博物館にあるため、そういう貴重な珠洲焼が地元から出土したことを知っている正院在の方は何人おいでるのだろうか?
私にとっては、のっけから、かつて関わった文化財保護審議員時代を振り返る研修になった。
そして、皆にとっては
エー―!
そんなのが身近にあるの?!続きの研修となった。
若山庄四至の北「正院八畳袋」と考えられているハッチョウノウテ、ハッチョヤ、ハッカ山を通って折戸へ。
折戸刀祢について解説。
最後の十村上田源助と襖の下張文書に多くの源助家文書があることも説明する。
どの家にも文書が埋もれている可能性がある、そういった方々の小旅行なのである。
木の浦展望台。
『梁塵秘抄』300首目
我らが修行に出でしとき 珠洲の岬をかいめぐり 振り捨てて
独り越路の旅に出て 足うちせしこそ あはれなりしか
の舞台、海の修験道の象徴が、ここから見える堂が崎の景観。
小雨、風がやや強くなってきた。
高橋掬太郎筆「木の浦ブルース」碑
に寄り、元気のいい人は千本椿に寄る。
駐車場があって、どちらも近いところにあるのだが、場所を知っている人はいなかった。
喩えは悪いが、麓近くの山で遭難がおこるのが納得できるほど、大きな案内板がないと気づかないことをあらためて認識した。
千本椿は道路から下るようにして行かないと、千本椿の中心巨樹が多くある、すぐ側の徳保八幡神社に辿りつけないのだ。
馬緤では、角川源義、沢木欣一、大野林火自筆句碑
高橋掬太郎筆「砂取節碑」などを見学。
句碑は全て「砂取節」に関するもので、高屋の二棟塩蔵跡あたりまで、
塩田能登の重要な要素を語りかけてくれる。
言い換えれば、角花家、塩田村と大谷地区の海岸・塩生産会社に塩田関係は集約されているが、二地区が加わることによって塩田文化の幅と深みが広がるということである。
が、句碑があることも、句碑を見ることもなく飯田、野々江の人たちは今日まできた。
珍しいところを案内してもらったと喜ばれたが、これだけ世界遺産里山・里海が騒がれているのに、寂しさも混じる複雑な気分。
曹源寺弥陀三尊像
特別に開けていただいて拝観した。
県指定有形文化財。
目線の位置で合掌することの大切さを語った。
上品上生印(定印)。
真宗のご本尊は?
摂取不捨印
大谷塩の道
龍泉
角間道との分かれ道
仲谷内の棚田風景
外山
末定大納言墓を目指す。
時忠の墓とも伝えられている古い五輪・宝筺塔印
石室?があり、『能登名跡誌』に時忠が参拝したとある吉祥寺の元地が
ここの奥にある。
半信半疑で緩やかな坂をあがってきた門徒さんたちは、大きな石の上のこの塔を見て
一様に目を見張り、声も出ないというご様子。
それほど想像を超えた風景なのだ。
奥能登ブルース碑付近、この大納言墓付近、いずれも綺麗に草が刈られている。
地域人の民力の大きさ・力強さも伝わり、感動となってくる。
その後、黒丸家(重要文化財)付近の中世的景観を鑑賞し、
「若山の庄」で昼食。
お寺の同朋婦人会一行ということで
輪島塗の宗和御膳での食事が用意されていた。
この他、山菜・野菜、炊き込みご飯(おこわ)などが付き、
すごくおいしかった。
この施設設立が具体化した2016年(平成28年)11月に、中心メンバーの方々に講義をしたことがある。
おいしいとの評判を聞き、何度も建物の横を通り過ぎたが、入るのは初めて。
団体だからこそ入れた…のもあり、いい研修だった。
「若山の庄」立ち上げー若山庄を知る
大坊正福寺さん「尋源館」。
この法宝物館がある。
これだけで、珠洲・能登さらに真宗全体、歴史の宝だと胸が張れる―そのような施設である。
前住職の故篠原映之氏が、膨大な法宝物、転籍。文書類を生涯かけて整理なさった宝物館である。
ひとり一人が、館内に一歩足を踏み入れ立ちすくむといった形容しかないほど、圧倒されている様子が伝わってくる。
そういう反応を示すことが出来るほど、御門徒の方々も育っておいでると
その点でも胸を打たれたのであるが、
ともかく、真宗史が凝縮されてここにある。
市指定は「絹本着色十二光仏十字名号」「蓮如上人吉崎草案御文」「絹本着色蓮恵・妙忍画像」。
蓮如上人関係だけでも御遺骨・御木像・四幅絵伝など数日の蓮如忌が執行できるだけの良質な法宝物が揃ってある。
埋もれさせておくのはどの角度から見ても損失なので、
御住職と有効に生かせないかをわずかな時間ではあったが話し合った。
故映之氏とは、『能都町史』寺院編を書いた。
映之さんが真宗の個別寺院、私が真宗以外、真言・曹洞・浄土・日蓮宗寺院を担当し、一緒に調査させていただいた。
氏が47,8歳、私は31,2歳の頃である。
その頃は飯田高校の教員をしていて野球部顧問だったこともあり、ノックを終え、二つ目の弁当を持って能都町(当時)へ通ったものだった。
海を見ながら弁当を食べ、聞き取り調査は夜。
連れ合いは弁当を2食用意したのだし、
晩酌を飲んでいい気分になっている住職方へも、こちらの都合だけで押しかけ話を聞いたのだから、
市町村ブームで何でもありの時代だったとはいえ、今から思うと赤面ものだ。
篠原さんは膨大な史・資料を綺麗に整理されて次の代に繋がれた。
私は……、ドンドン広げて、何が何だか分からなくしつつある。
今日の結論―まず、何よりも整理整頓
そのためには、まず、メモの走り書きをやめて読めるようにする。
(どうして考えていくと、ここに落ちつくのだろう……)。