南信一先生宅、静岡―杉田先輩と下宿先訪問―5月9日(水)

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静岡駅前松坂屋付近。
配送、包装、食品売り場などで、年に2回宛アルバイトをした。
お客さんに分からないよう「喜座(きざ)」に行ってきます、が食事を取りに行ってくるの意、
そこから隠語に関心を持ちだしたのが松坂屋のバイトだったし、
最初の年、そこの「紙」を下さいと言ったのに、他大学から帰省中にアルバイトに来ていた人が取ってくれずに怪訝な顔をしている。
何度も繰り返して、ようやく「紙ね」とよこしたのだが、彼は「神」をくれと言われたと思い、神様をどうするのだろう、と今でいうと一瞬パニックになった、と言っていた。
方言に、敏感になったのもアルバイト先だった。
大学では鹿児島から東北、キャールが鳴くんで雨ズラヨまでが乱れ飛んでいて、アクセントの違い程度は問題にならなかったのだ。


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53年前、海野間借り先の杉田さん(19か20歳)


静岡時代の関係者は、政令都市になってから住所が変わってしまい、ほとんど連絡が取れなくなっている。
静鉄ホテルに泊まり、午前中に、1年生(昭和40年4月~41年3月)の時の下宿(篭上新田海野アパート)付近を歩こうと考え、その時の先輩で、面倒を見てもらった杉田先輩の家が近いような気がして、ダメ元で電話をしてみた。
杉田さんは遅くまで賀状のやりとりをさせて頂いた方である。
電話口にご本人が出られ、オーオー!となり、静岡駅まで車で来ていただいた。
53年ぶりの再会。そのまま、今はなき間借り先アパート付近、2階建ての建物は篭上中学校グランドに面してあったので、中学校付近を歩いた。

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下宿前。ここは梨畑だったそうだ。
1年間暮らしたのだから、記憶にあってもいいはずだが、全く浮かんでこない。

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篭上中学校前レリーフ
ここにいるとき、中学3年生の山口、内藤さんの家庭教師をした。
家は秋山町にあり、自転車で通った。
その当時、このレリーフがあったのだろうか?
一昨年から山口さんと連絡が取れるようになったので、聞いてみよう。
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篭上中正門前。
小雨もあったが、着こなしがだらしない。
杉田さんに撮ってもらった。


杉田さんは附属の教頭や市内学校の校長をなさり、現在静岡大学教育学部同窓会副会長および退職校長会副会長職についておられるとのこと。
彼の19歳から20歳まで同じアパートで過ごしただけだったが、その頃から正義感が強く、広い視野から考え、周りを包み込むような人だった。

その関係もあって、大谷(おおや)の静大
駿府公園近くにある県教委内・静大同窓会室なども訪ねた。
すぐ側の建物の向こうに附属があるとおっしゃるので、

♪朝霧深い高原に
 …
 附属の子らはみんなして
 幸多かれと祈ります、いのーります

と、あの時確か、子どもたちの歌を聞いて杉山はボロボロ泣いたなぁ-、
などと50年前を思い出しながら口ずさんだところ、杉田さんに、よく覚えているなァと感心された。

もしも、同級生たちの多くが、その歌をあまり覚えていないとするなら、トコトンのめり込む性格が歌を覚えさせたのだろう…
と思う。
この歌を当時のアルバムで確かめると、歌詞が書いてあった。

1、朝霧深い高原に 気高く清い富士の山 かがり火囲み歌った日
  今懐かしく思い出す 今懐かしく思い出す
2、からりと晴れた秋の空 二人三脚・障害と楽しい運動終わったら
  君の胸には黄のリボン 黄のリボン
3、集いの朝の楽しさを 君忘れるな いざさらば 附属の友は皆して
  幸多かれと祈ります 幸多かれと祈ります

 
歌える…。


同窓会などないのだろうと思っていたのだが、大きな同窓会名簿があった。
杉田さんが西山郷史は?と聞くと担当者がしばらく調べてくださって、
住所不明者になっています。とおっしゃる。
そうなのだ、と思うと同時に、卒業生に名があるのだと変に感心した。


学生運動が盛んだった当時、途中退学者も多く、いくつかの学部はバリケード封鎖中だった。
杉田さんに連れられて同窓会室を訪ねたその時まで、在学生名簿なども大学紛争最中になくなっている、のだと思っていたのだ。

住所不明者を見ると、飯田高校から共に行った4人は全て不明者で、1人は隆弘なのに孝弘になっている。
僕らを復権する作業をしなくちゃならない。

南信一先生宅

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先生宅、思索・執筆机。
先生の三部作
『總釈 支考の俳論 付聞書七日草・山中問答雑談集』
『總釈 許六の俳論』
『三冊子總釈』風間書房


庭が綺麗で、建物の木の香りがやさしい空間だった。

お宅を守っておいでるはるみさんと杉田さんは教員関係の知り合いだとのことで、ここも杉田さんに連れて行ってもらった。

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昭和58年、8月22日御逝去。76歳。
この日には一昨年真継伸彦さんが亡くなっておいでる。
下の句は、

清忙に
  ひと日は暮れて
 枇杷の卓

わがいのち
  行手に春の
 陽を歩む


先生からの便り、賀状


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昭和44年。
大谷大学院へ入学したとき。

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昭和48年
和倉温泉

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宇出津高校、結婚の年だから昭和50年。
この年、もう町名変更しているのだ。
○四月はじめ、大島に遊ぶ
 椿みち 過ぎれば 波浮の港見ゆ
絵葉書は大島泉津港

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昭和51年
能登の海がなつかしい。

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昭和52年
すずの海、なつかしく回想しています。

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石川さゆりの歌と共に
能登をなつかしんでいます。

必ず、能登に触れられ、大学3年の時の北陸旅行を話題にしておられる。
私も19年教員をしてみて、今、あらためて先生の優しさ、気配り、勝れた教育者であられたことを感じている。

旅をした曽々木海岸、先のブログ雅号:渓虹さんにも写真を載せたが、
今は歩くことの出来ない海岸道の先に、東山魁夷の障壁画「濤声」のモデルになった岩(「おおまの岩」)があることが、今朝の北國新聞朝刊トップに載っていた。
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「濤声」記事
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この先の海辺近くに大澗の岩がある。
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このシャッターを押した場所も今は行くことが出来ないはず。

南文庫

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南先生に頼まれて、英和女学院短大・研修旅行の世話をしたことがあったはずだ。
手紙が出てきた。
池上雄三という方の手紙で、
南先生の寄贈図書が当時の静岡英和女学院短期大学図書館にあるという。
南はるみ様が、資料を用意してくださっていた。
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昭和60年。
この館報に池上雄三氏が前図書館長の肩書きで「新図書館雑感」という文を書いておいでる。

南先生を偲ぶには英和の図書館がある、そこまで知ることができた。

わずか3時間半ほどで、何年も静岡を訪ね続けていたように多くの想い出の地をたどり、
情報をいただいた。