妙好人とは?

妙好人 千代尼』を、真宗10派本山、東西教務所などに謹呈した。
図書館や資料館、記念館、学会などと違って教務所では寄贈本を受け取るようなことがないのかも知れないし(教務所において売ってください、という例は、頻繁にある)、本山教化関係から礼状を出しているのでそれに代表させていると見ることもできるが、教区で礼状をくださったのが、
大谷派では山陽教務所
本願寺派では安芸教区教務所である。
別の見方からいうと、「妙好人」はこの教区以外では、ほとんど知られていないのではないだろうか…。
他の教務所にとっては、当地域と関係のない本が送られてきた、ぐらいの受け止めかもしれない。

そう思わせるフシが多々あるのである。
近しい民俗学者が「妙好人」が普通名詞として使われていることを知らないようだった-いいタイトルつけましたね、との感想。
県内の小学校教員が「加賀の千代女」、朝顔に、朝顔や…の句も知らない。
一般の人で「妙好人」を、どう読むのですか?
などなど…。

それで、書棚にある「妙好人」のつく書籍を並べてみた。
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誰が妙好人なのか、これでは分からない。

妙好人伝」中の妙好人

妙好人研究が進んでいるように見えるが、それは「妙好人伝」研究で、「人(にん)」としての研究ではないのだ。
多くの「妙好人」本を購入したが、これらは「妙好人伝」の著名な人物を選んで書いたり、
現代あるいは、著者が妙好人伝に加えればいいと思える数名の人を加えた「妙好人伝」を踏襲している。
いわば、わたしの(筆書の)妙好人たち、とでもいえよう。

妙好人○○は、『妙好人 千代尼』と、左から5冊目の『妙好人 赤尾の道宗』しかない。
多くの「妙好人」本を開くと、石見と安芸を中心とした妙好人たちが並んでいる。
法藏館の図書目録を見ると
妙好人のページには、『定本妙好人才市の歌』『大和の清九郎』(※妙好人はついていない)があった。あったというのは品切れで買えない本である。
語録版画集として『妙好人 因幡の源三』があり、これは購入できる。
船下さんが営んでいた、有名な民宿「さんなみ」の玄関に源三のようこそようこそが出迎えるようになっていたが、この版画集の一枚だったのかも知れない。

写真にある「浅原才市の歌」は『定本妙好人才市の歌』があって、そこから選んだものであり
妙好人赤尾の道宗』の筆者・岩倉政治は道宗・才市に讃岐の庄松を加えた3人、すなわち
南無阿弥陀仏そのものの才市、
とらわれることのまったくなかった庄松、
苦行者のごとく生きた道宗
と、時には奇人扱い(まねができないという意味で)されるような、それぞれに徹した3人を妙好人の代表に取り上げている。

左から7冊目に『庄松ありのままの記』があるが、これは私が妙好人伝その他に取り上げられてきた庄松を知っているからであり、「妙好人」を含む本ということであれば、ここに並ばない。
となれば、独立した妙好人として1冊に取り上げられてきたのは才市と道宗の2人しかいないことになる。
妙好人」が分からないはずだ。

同朋としての千代尼-千代女伝説ー

ここまでの「妙好人」の概念と、千代尼は全く別人なのである。
俳諧が上手だった、どこにでもいそうな信心に生きようとした人、身近な人をはじめてとらえたことになる。
この時点で、すでに「目からウロコ」の本といってよい。

千代尼句に信心に生きようとした、信心に生きた句が多く見られる、千代尼になった52才以降を「果」とすれば、
そこから、逆に「因」時代の若い頃には、
当時の人々の多くが出会った、子との別れがあったろう、
嫁ぎ別れもあったろう、
「蜻蛉釣り…」や「破るもののなくて…」の句は、「因」時代の仏「縁」の句として作り出された(モデルは和泉式部)のである。

1600
句以上の千代尼句がありながら、それに比せばわずかの伝説の句が、千代女の句の代表のように膾炙(ちょっと難しい漢字を使ってみた)されているのは、繰り返し人々の記憶に残る、今でいうなら学校教育のような場で語れてきたからであろう。

となれば、これからは
妙好人伝』の妙好人とは別に、『正信偈』「佛言廣大勝解者是人名分陀利華」の「分陀利華」の人として妙好人をとらえなおして見なければならない…それが今の私の聞法となるのだから……
今現在説法である。


このようにとらえていくと、この本は、今が出発点であって、ジワジワと言わんとしていることが伝わっていってくれればと、それに越したことはない。やわやわ…とだ。
※この「やわやわと」を新潟三条で使ったら意味が分からないといわれた。担当の大阪出身の方に聞いたら、柔らかいということですか?と返ってきた。
 強いて言えば、ゆっくりゆっくりを柔らかく包み込んだ感じになろうか…。