井波別院・瑞泉寺ー太子絵伝、城端別院-虫干し法要、蓮如上人
例年、私の夏休みは、井波・城端へお参りに行くことにしているのだが、昨年は行かなかった。
どうも戸坂潤を調べるため、戸坂を知る西谷啓治のお弟子さんや、神戸大学その他で哲学を学んで来られた方に、戸坂潤とは?
を聞きに回っていて行かなかった、ようだ。
今年は、羽咋の方にお話しに行く機会があったので、一泊泊まりで行ってきた。
都合がつくのは土曜日夕方から日曜午前中で、ようやく探し出した井波の旅館は満員。
両別院に近い、福野でホテル(福野タウンホテルア・ミュー)をとった。
レストランもホテルも感じのいい人たちだった。
福野には遅く入ったのだが、大きなお寺があったので見に行くと、近くに綽如上人の御旧跡があった。
瑞泉寺へ行く前に、御旧跡に出会うとは…感じの良さ-土徳ーが膨れあがる。
北陸(街)道-471号
小矢部市谷坪野あたりか。
棚田が美しい
ホテルより。夕景。
普願寺
栖息の枩(松)
栖息の松跡(礼拝塚)
南砺市指定文化財(史跡) 昭和三三年七月二四日
瑞泉寺の記録に本願寺五(世?)綽如上人は布教のため越中を訪れ、野尻の「富野」(二日町か)にしばらく滞在したが、井波の杉谷に移り明徳元年(一三九〇)瑞泉寺を開いたとある。野尻は中世水陸交通の要衝として栄え、砺波地方の中核的都市だったようで、綽如の一〇〇年前にも時宗の僧浄阿布教に訪れ、野尻城主が帰依したという記録がある。
栖息の松は、綽如自ら宗門が栄えるよう祈念して(植?)えたものという。村人はこの場所を尊び礼拝塚と呼ぶようになった。松は礼拝塚の上にあったが、明治になって枯れたので株に覆屋をかけて保存してある。
近年、この塚は当時の有力者の墳墓であったことが判明している。かたわらの「栖息の枩」碑は安永二年(一七七三)に、芭蕉句碑は寛政九年(一七九七)に普願寺が建てたものである。
平成一月一五日 富山県教育委員会
南砺市教育委員会
の場面
瑞泉寺参道。
雨
黒髪庵
瑞泉寺第11代浪化上人(常照・1671~1703、琢如上人の子)は芭蕉の敬慕の念厚く、芭蕉没後6年の元禄13年、井波に日本最古の翁塚を築き、遺髪を得て黒髪庵を建立した。
兎に関心があるので、つい足が止まる。
後で知ったのだが、井波彫刻店当主の干支を看板にしているそうだ。
猫
ポスター
23日(日)の北陸中日新聞
瑞泉寺
瑞泉寺では、「特別宝物展」浪化展をやっていた。
黒髪庵もさることながら、
浪化の子、桃化と加賀の千代の贈答歌を「妙好人・加賀の千代尼(仮題)」に書いたので、眼を皿にして展示を見た。
御影の桃化上人に出会った時、何度か見ている千代尼像との間に、句を媒介にした光景・場面が浮かんだ。
いい御影だった。
桃化上人の句は「留別」、千代の句は「餞別」の題で詠まれている。
このような冊子(越中俳壇の華 浪化とその時代展・平成5年)も、200円の中に含まれていた。
文中に、芭蕉翁満中陰追悼会が開かれ、井波連衆の妙蓮寺其継などの名が載っている(浪化「壬申日誌」)
。
瑞泉寺にお参りに行く前、妙蓮寺さんへ寄って、絵解きの名人でもある御住職とお会いしてきた。
真宗世界の俳句…翻刻などをやれば、真宗文化の深まりが見えてくるのだがなぁ……
城端別院・善徳寺
蓮如上人腰掛け石
この石は廃村になった中河内道場にあった蓮如上人腰掛の石と呼ばれている石です。
中河内では安産石と呼ばれていました
その謂れは村の肝煎の娘が難産で苦しんでいた時この石に腰かけさせたところ安産したという石であります
城端別院善徳寺
となったら、どうしても「蓮如上人御一代記聞書」に載る
次の文を加えておかねばならない。
蓮如上人御一代記聞書78
法敬坊、蓮如上人へ申され候う。
「あそばさ候御名号、焼け申し候うが、六体の仏になり申し候う。不思議なる事」と、申され候えば、前々住上人(蓮如)、その時仰せられ候う。
「それは、不思議にてもなきなり。
仏の、仏に御なり候は、不思議にてもなく候う。
悪凡夫の、弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ」
と、仰せられ候うなり。
帰りは、高岡市・五十辺の友人宅へ寄り
雨でいくつか崖崩れがある山道を越えた。
途中に氷見市指定・坪池の宝篋印塔とある文化財標識を見つけて、車を留めたのだが、近くには見当たらず、雨模様でもあり、山にあるような感じだったので、それ以上は探さずに通り過ぎた。
いつか行く日もあるだろう。