末代無智の…お彼岸

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御文の第五帖1通目
「末代無智の在家止住の男女たらんともがら」と呼びかけられている存在を味わってみると
現在は末代だから、生きとし生けるものすべてに呼びかけておいでる。
はい私です、だ。
無智の、智は智慧の智、仏さま、覚者の智
私達のチは愚痴の痴、
やはりすべての人々が「無智」なのだから
はい、私ですとなる
「在家止住」も親鸞聖人のように9歳から叡山に入り修行に明け暮れる人がおれば、別だが
義務教育下の現今、在家を離れて存在する人はいない。
男女たらん人々
全存在ということだろう
男女は全衆生であって、そこに「人々」との括りがあると見ればいいのかも知れない
すなわち、「末代無智の在家止住の男女たらん人々」は少なくとも日本の全仏教徒を指している。

そこに真宗門徒と、内外を分ける必要は全くない。

明日の彼岸の中日のお話しは、そのあたりを考えてみようと思う。

露地に、座禅草が咲いている。

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