名作を「往く」ー哀し恋 歌碑ひっそりー大月みやこ「奥能登ブルース」

今朝の北陸中日新聞
大月みやこ「奥能登ブルース」
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取材同行

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飯田三郎色紙
色紙が書かれた年は、私の学生時代で、この頃、珠洲の家にはいなかった
どうして、この色紙があるのかはわからない。
その頃のいくつかの例から考えれば、おそろく本堂で音楽ショーがあったのだろう。
今、その葉書はなく、これよりずーっと前のことだが、本堂で浪花節をうなっていった南條文若(のちの三波春夫)さんが
「おーい船方さんよ」でデビューしました、と写真入りの葉書をくださったのを覚えている。
飯田には2つの映画館があったが、浪曲師や歌手の卵などは、本堂を座にして回っていたのだ。
新聞記事が載った後、碑を建てた遺族の方から連絡があり、
大月みやこさんと長年、賀状のやりとりがあったと話して下さった。
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砂取節碑。
高橋掬太郎書。
高橋掬太郎氏は、昭和25(1950)年に設立された日本民謡協会設立者の一人で、
「砂取節」(県指定)を全国に紹介したのが、高橋さんだった。
この砂取節碑は、元馬緤春日神社境内にあった。、

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能登ブルース碑
高橋掬太郎書
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碑入口。
椿トンネルのようで綺麗な道なのだが。
案内板も無く、
これだけではまずたどり着けない。
ひっそりと記念碑がたたずんでいる。


飯田三郎・高橋掬太郎コンビの歌謡曲に、
「啼くな小鳩よ」(岡晴夫)「ここに幸あり」(大津美子)などがあり、
高橋掬太郎作詞に「古城」(作曲・細川潤一・歌三橋美智也)、
「酒は涙か溜息か」(作曲・古賀政男藤山一郎)、
石狩川悲歌」(作曲・江口浩司、三橋美智也)などがある。

能沢佳子さん「あなたが帰る日」、そして船村徹

高橋掬太郎の歌碑取材におつきあいしたのは11月1日。
急ぐ記事だったようで、10月30日に寺井図書館での講義、
翌日金沢での故長山直治さん宅での本の整理などを終え、
1日は雨が降っていたにもかかわらず、現地で写真を撮った。
髪は濡れ、暗いのでフラッシュをたいて撮影。
髪が薄くなって写っている(写真は事実しか写さないそうで、これはこんなに薄くなっていないはずとの見栄)。

さて、この話が記事になったとき、もう一つの思い出をブログに書こうと用意していたのが、能沢佳子さんと「あなたが帰る日」である。

家に警察学校を終えてすぐの警察官と、内浦町の高校生が下宿していたときのことだから、私が中学生2年ぐらいの時だと思うのだが、
雑誌「平凡」か「明星」の付録の歌集に、能沢佳子さんの「あなたが帰る日」が載っていた。
たしか、

♪あなたをここで見送って、泣き泣きここで手を振った。
ああ、思い出の峠の道に、アンズの花が咲いていた。
あなたが帰る、嬉しい日

という歌詞で、その方が胸の前で手を組み、思い人を待っている
そのような写真が載っていた。

当時、近くに貸本屋があり、本体は貸本に、付録はかなり安い値段で売っていたはずで、流行歌が好きだった私は、新本が出るなり付録を買いに行っていた。
その歌集に、能沢さんが遠くを見やり、あなたが帰る喜びにあふれる様子で立っている写真があったのだ。
当時のものが結構残っているのに、この能沢さんの写真が載っている本は失われて、無い。

混沌としている少年期の思い出のひとつなのだが
この歌手が、その後どうなったのかを気にかけていて
あるとき、船村徹という作曲家が、能沢佳子さんについて語っている記事をみたか、ラジオ番組を聞いた。


能沢佳子さんは金沢で流しをやっていた方のお嬢さんで、将来性のあるいい歌手なのだが、この子は私のお嫁さんにしたい人だと思い、彼女向けの曲を作らずにいる…
といった話だった。


その船村徹さんが今年、文化勲章を受章なさった。
ギターも上手く、若い頃は流しもやっておられたと話しておいでる。

ここから推測だが、父君とも御面識があったのだろう。


郷土というか、何でも県と関係があると書く新聞が、
文化勲章の人を支え続けた金沢出身の妻…
に触れないのは、どうしてだろうと思っていた。

それで、「奥能登ブルース」が話題になったところで、思い出話を記した。

小さい頃から流行歌が好きで、歌が好きだからまつわる話も記憶に残っているのは、
正信偈、節談説教をものごころつく頃から聞いていた、お寺の環境がそうさせたようだ。