「戸坂潤・三木清・西田幾多郎の真宗」富来郷土史研究会

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北陸中日新聞2016(平成28)年9月28日(水)能登版17面
蓮如上人御一代記聞書」48段ー意巧に聞く、というか、マルクス主義哲学者から仏教学者。を、文系・理系のように同じ土俵の対立概念ととらえていて、マルクスか仏教かと書いておられるのかと思い込み、この表現はおかしいと思ったのだった。
だが、よく考えれば、いつも真宗はすべてを含んでいますといっているのに、
真宗も含む仏教学を、資本論を基盤にするマルクス主義に対立としか見ようとしなかった私の狭い発想が、そのレベルで抵抗を感じてたことに
お朝事の後片付けをしながら、気づいた。
逆に言えば、お寺に生まれ、そこで生きようとしていた、青春時代に出会った唯物論は、それほど巨大な影を落としていると言えるのかも知れない。

仏教学(者)は、人間界のあらゆる「主義」を包み込み、限りなく深い学と認知すべきなのだ。
紹介した西田の文は、明治44年刊『宗祖観』に載る「愚禿親鸞」(寄稿)である。



27日は定期10組同朋会推進員講座の日なのだが、連区の会の日程との関係で30日(金)に延期した。
例年12月に講義している富来町郷土史研究会が雪との絡みでいつも心配しながら講義の日を迎えるので、雪の心配の無い時にと27日が空いたので入れていた。

今回は、題して「戸坂潤・、三木清西田幾多郎真宗」。
戸坂氏を知っている方というか、講義を含め、研究者の何人かに聞いたところ、戸坂は、マルクス主義者ーだった。
 
マルクス主義は、貧富の差の無い社会、あるいは余剰で暮らす豊かな層を生み出させない理論としてあったり、一方で、「主義者」と呼んで、かたくなな変わり者が学んでいる学問という見方もあったように思う。

戸坂の哲学をマルクス主義と呼ぶ時、その見据えていた方向性・彼のマルクスは如何?が問われるのではないだろうか。

ここからは想像だが、ゴシンタクサマと呼ばれた豪農に生まれ、学問させてもらえる環境にあったのが戸坂で、一方、「花いちもんめ」に伝えられているように、子さへ売らないと生きていけなかった世間があった。

いわば社会矛盾に最も気づきやすい立場に育った潤が、みずからの境遇に対する申し訳なさ、自己否定の中で、それから解放されることが出来るかも知れない期待を抱かさせた学問が、マルクス主義唯物論だったのだろう。


その学問に、自然、風土、真宗の土徳がふれあう時、西田の最後の論文の最後尾に「私は、ここ(鈴木大拙『浄土系思想論』部分)から浄土真宗的に国家というものを考え得るかと思う。国家とはこの土において浄土を映すものでなければならない」といい、
三木清が、論理学の構築を目指したその先に、人間の息吹が伝わる対象として「親鸞」を目指した(最初の論文『パスカルに於ける人間の論理』と同じように親鸞をとらえたい、と言っている)のと、
同じ地平が、戸坂を待ち受けていたはずである。


そのあたりの問題を整理し、戸坂の行き着く先に再び富来の息吹があったはずだと見極めない限り、
戸坂は富来の郷土には帰れない。

戸坂の師匠寺のご住職である粟津啓有さんは、
戸坂は若い時に仏教を学ぶつもりだと書いている、
戸坂の長女蘭子に宛てた葉書に仏教書を読んでいるというのがあるのです、
と教えて下さった。
その戸坂が追いかけ、訪ね続け、追い越そうとした身近な二人の哲学者、三木清西田幾多郎
その跡を私たちも訪ね、
粟津住職の思い、研究会の主要メンバーであるご門徒さんたちの思いも代弁しようと、調べ始めたのが今回の発表である。
その中で、幾多郎の就職が七尾から始まり、
同級生のために碑文字を書くなど、身近な幾多郎の様子が見えてきたのは、思わぬ出会いだった。
結局一人25枚分もの資料を用意して、富来に向かった。
別資料PDF


その途中、西谷内覚永寺さんへ顔を出し、
富来へいくよと資料をお渡ししようと思って寄ったら、祠堂経のご満座。
お斎を呼ばれていきなとおっしゃるので、おいしいお斎料理をいただき、
お勤めまでを法の香り漂うお寺で過ごした。
残念ながらお説教は聴聞出来ず、
会場へはギリギリに着いた。
お誘いしていた哲学研究者、それに中日新聞社の記者も来ておいでた。
2時間たっぷりの講義。