木仏安置御免・貞享二年(1685)七月四日

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20日、家の歴史を調べておいでる御当主が訪ねてこられて、御内仏の写真を見せていただいた。その一枚。
木仏の向かって左に先のご本尊である六字名号が掛かっており、いわゆる蓮如上人(~証如)の草書名号である。
その家は、旧若山荘中心地の中心の家である。
この木仏御免の年号が貞享二年であることに興味を持った。
貞享二年(1685)は、加賀藩がまとまった寺社由来(貞享の書上)を書き上げさせた年で、
能登四郡は、
羽咋郡が八月廿日、
能登郡が七月十九日、
鳳至郡が八月二十九日、
珠洲郡が六月二十三日付けで書きあげている。
この木仏は、珠洲郡が終わって間もなく免許となったものである。


同じ旧若山荘鈴内には、前田利家の出身地・尾張一楊(ひとつやなぎ)庄荒子村道場」「宣如」「寛永八年(一六三一)」とある古い木仏もある。
これは中世の役人名・正司を家名にする家であり、
村の中心的姓を持つ家に貞享の木仏があり、
まだ紹介していないが、別エリアの、やはり集落の本家筋の家には証如版・御文もあった。

加賀藩政に農民代表が十村や肝煎として関わっているが、
そのような家には、本願寺からの木仏安置がステータスとしてあったのかも知れない。
→江戸初期の在家仏

時代は下るが、大谷派本願寺第十九世達如上人室が鷹司正熙の長女・依子で、
次女の隆子が加賀藩第十一代藩主斉広(なりなが)だったことが思われる。
藩・本願寺門徒の関係は相当深かった。
→親鸞聖人550回忌御遠忌追慕和歌

雨池家

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訪ねてこられた目的は、古い親戚である雨池家について分からないだろうか?
だった。
その家については、2009年のブログよみがえる岩坂村の旧家と題して紹介していた。
家がそのまま残っていると思っておられず、大変驚いておられたが、調べられたのを聞いていると新たに分かったことがある。
雨池は、文政頃の記録では「甘池」家となっていた。
宝篋印塔は、雨池家墓地から移したのだそうだ。
などなど…