江戸初期の在家仏ー夕刊「舞台」ー初期木仏安置許可・安置御免

2011年(平成23年)1月21日(金曜日)に、夕刊の記事として書いた文に、より詳しく在家の木仏を紹介する。

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江戸初期の在家仏。
真宗史関係の話でもあるので、肩書きを西勝寺住職でお願いした。
昨年、珠洲の在家で見つかった元和2年(1616)、寛永8年(1631)、同15年(1638)の3体のご木像。
大変重要な問題を含んでいる諸仏たちであるはずだ。

門徒宅本尊(『伝説とロマンの里』第三章13

 淨土真宗真宗門徒のお内仏本尊は、たいていが「摂取不捨印」の画像(方便法身尊形))である。なかには、本山からの木仏安置御免(ごめん)・許可を得て、木仏を安置しておられる門徒宅がある。木仏が安置されるのは、仏壇がそろそろ広まり出そうとする文化・文政期(一八〇四~三〇)、すなわち十九世紀以降のことが多く、許可されたのは、当時の村役人クラスの門徒宅だった。
 ところが、三崎町の泉家に、元和二年(一六一六)、大谷派本願寺第十三世宣如上人の「木仏御免」御木像があり、伝蓮如上人作の阿弥陀像と伝承されてきた。上人作を保証する加州住大仏師松井清寛の「極(きわめ)」書き(天保三年・一八三二)も同家に伝わっている。この仏像は有名だったらしく『珠洲郡誌』にも載っている。
また、若山町の小名主の多い地域の要の地である広栗に、中世の役人である「正司」姓の家があり、そこにも古い御木像がある。その許可状には「一楊(ひとつやなぎ)庄荒子村道場」「宣如」「寛永八年(一六三一)」などの文字があり、先ほどと同じく宣如代の寛永八年に授与された古い木仏である。寛永は、三代将軍家光のころにあたる。
ここに記されている庄および村名が驚くべき地名で、一楊庄は、伊勢神宮の御厨(みくりや)で一楊御厨とよばれた荘園、荒子村道場があった荒子村は、初代加賀藩前田利家の出生地で、現在の名古屋市中川区南部にあたる。どうして珠洲の若山町に利家ゆかりの地の本尊があるのか? 経緯は今となってはわからないが、あるいは、利家が加越能を支配したとき、多くの中世的土豪がいる奥地に、尾張から前田家とともにやってきた人物を役人として派遣し、縁故の地の御木像を受けそのまま定住したのではないか?
などと、限りなく想像がふくらむ。それほどの古仏の存在である。
この二つの御木像以外にも、寛永十五年(一六三八)下付(かふ)の木像も存在しており、寺号を持つまでもない、道場的な在家の存在があったのではないかと推察される。

同「能登の七刀祢・七岡田、庄司」

また、中世在地荘園の役人名を継承すると考えられる庄司家は、川浦町、三崎町寺家、粟津、蛸島町などにあり、同様の系譜を持つと見られる正司家も、折戸町、若山町広栗、宝立町宗玄、能登町松波にある。
広栗の正司家は、加賀藩前田利家の出身地である「尾張一楊庄荒子村道場」の木仏本尊を有している。
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      釋宣如
        元和二 ※元和二年は1616年
        能
 木佛尊形   長光
        門徒
         釋

※町野川と珠洲、鈴屋、柳田・宇出津、曽々木・輪島へ向かう道が交差する要所に「助供家」がある。
平家伝説で知られる大谷町には時忠の子孫を名乗る則貞などの八名主があり、その筆頭が助友と伝えられている。
この木仏は町野荘の要衝にある助供家にあったもので、泉家にあるのは何代か前の姻戚関係によるものという。
このようなご本尊の移動は、特に珍しいことではなく道場に本坊の前本尊があるケースもよく見られる。
この地の橋を五里分橋という。

寛永の木像は、正司家と退転した十村・恒方家で安置していたものである。これも親戚家にあるのだが、いずれも写真には撮っていない。
  
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 寛文十年四月十一日
      興宗寺門徒
木佛尊像  安置御免
      越前国足羽郡
      朝谷村
   釋琢如     願主 浄順
              妙念

寛文十年は1670年。この年東山大谷本廟が設けられた。
この木像は、西勝寺のすぐ近くの家にある。
来歴は不明。

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広栗橋、広栗地内ここは四辻の要所であり、若山川の水運とも関わっている。

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泉家

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五里分橋。
輪島、宇出津、飯田へ5里。それで五里分けなのだが、一般に五里五里橋と言っている。