蓮能尼の里、能登教務所「こころの広場」日野賢之師、明日ありと思ふこころの・・・碑

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蓮能尼の里ー中島町鉈内地区 20日午前中

午後から日野賢之師の「王法と仏法」を聴講。
○「政治で神をつくるな」(蓬茨祖運「教化研究」58号、1968年発行)
○極楽はあるか?
知らない
無い
ある人にはあるし、無い人にはない
蓬茨師の答え、ある。
見てきたわけでもあるまいに。見てきた。
どんなところだった? この後が面白い・・・。
王法とは聖徳太子の法である。すなわち十七条憲法である(教如上人)。
それと対立していったのが律令世界である。
○「上人遠流」(佐藤春夫
聖徳太子観音菩薩)、法然上人(勢至菩薩)。弥陀三尊ではあるが、時代との関わりでどのような働きをした方々であったか。
真宗外の人々がーたとえば7割の人々が親鸞聖人を知るのは高校生の時の教科書。もっとも使われている山川版では、悪人も救われる教えを説いた。
実教版ではこの時代はひとしく悪人であり、その悪人がひとしく救われる。両者の大きな距離。
興福寺奏上。勅許を得ていない。浄土に限ったことではない、他宗もすべて勅許は得ていない。禅に対するけん制もあるのでは。
王法・仏法を分けてはならぬのに、最澄大師の末法論から分けることが始まった?
○「念仏往生要義集」(法然上人)
○「愛国と信仰の構造」集英社新書ーお薦め本など。

該博で核心を突く講義。高圧的でなくいつの間にかなるほどと思ってしまう破綻のなさ。
すごいついて行けない、うなだれようと聞いているうちに、一度振ってきた。
教如の論は、確か重松明久だったはずだ、西山さんどうでしたっけ?
(急に言われてもどうだっけだったから)ウムウムとうなずいておいた。
帰ってみたら人物叢書の『覚如』(重松明久)のことだった。本はよく知っているが著者まで意識していなかった。積ん読でなく、読もう。

講義後、彼を乗せて久江へ寄る。
道閑墓に車の中から手を合わせ、
久江~氷見一刎(ひとはね)道が「蓮如道」ということを伝え、
鹿島郡誌』には一刎まで蓮如上人が訪れたとあることを話し
高畠へ向かった。
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中能登町高畠ー伝親鸞聖人9歳詠
戦前まで京都青蓮院にあったもの。
「あすありとおもふこゝろのあたさくら
 よはにあらしのふかぬものかは」
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解説には

青蓮院境内に建立されていたのを、戦時中供出の命令により兵器になるところだったが敗戦により難を免れた。
その後、青蓮院に変換されるも、すでに代わりの碑が建立されていたため江州中郡詰所が護持していたが、故あって詰所からこの地に移して安置した。
平成十四年十月 参議会議員壁屋一郎、

とある。
故あっては、詰所が廃止されたためである。
この建物は壁谷さんの敷地内に建つ。
もう14年前のことだ。久しぶりに歌碑前をたずねた。合掌
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覚如』重松明久