「舳倉島の海女の灘回り」1935(昭和10)年発表の論文ー執筆者・沖谷忠幸氏とは?

f:id:umiyamabusi:20160214214214j:image
北陸中日記事2月14日PDF
f:id:umiyamabusi:20160214214207j:image
北國新聞2月14日記事PDF


正確にタイトルを説明すると
一部の研究者の間で、舳倉島、海女に関する初期の論文・報告書には沖谷忠幸「舳倉島の海女の灘回り」(昭和10年3月『社会経済史学』)・瀬川清子「舳倉の海女」(昭和9年4月『嶋』)の2作があることが知られていたが、一作だけしか残していない沖谷氏とは、何をしていた人なのか、何歳頃に発表されたのか、どこの人なのか、一切不明だった。幻の論文執筆者・沖谷氏、学会その他で全く知られていなかった沖谷氏が県内の人だったことが判明した、ということになる。
もちろん論文自体も、当時の海女の活動、海里人の交流経済活動を知ることが出来る唯一の論文として極めて貴重なものである。



能登最初の総合調査が行われた九学会の報告書『能登 自然・文化・社会』(昭和30年刊、平凡社)には、参考文献一覧の中に「沖谷忠幸 灘回り 社会経済史学」とあり、
昭和50年に刊行された海士町舳倉島の総合調査(『奥能登外浦民俗資料緊急調査報告書 海士町舳倉島』石川県立郷土資料館刊)の「海士町舳倉島関係文献目録」には、「沖谷忠幸「灘回り」(社会経済史学)昭和30年」とある。
社会経済史学という書籍はあるが、「灘回り」という論文は存在しないし、昭和30年刊行は輪を掛けて存在しない。
「灘回り」名からは、誰があるいは何が不明だし、この時点で、論を見た人はいなかったのだろう。
まして沖谷忠幸という人はどういう人なのか?
「灘回り」のみに名が残っている人物。晩年の論文かも知れないし、著名な研究者が一本だけペンネームを使ったのではないか、と考えても不思議ではない。
というのも、美土路龍は「東方界」という雑誌に書くときだけ五来重先生が使った名だった、そういう例もある。


一方、私の方は、戦前私の家で下宿しておいでたという女学校教師・沖谷さんの名は知っていた。
その沖谷さんと論文を書いた沖谷さんが同一人物であることを知ったのは、つい最近、ひょんなことからだった。


それは、沖谷先生に学んだ飯田高等女学校生徒の川端敏子さんー昭和8年卒業だから、現在98歳ぐらいだろうかーの思出の記に沖谷先生の指導を受けて民俗調査をしたことが書いてあることに気づいたところから始まる。


沖谷先生のお嬢さんで矢原さんに嫁ぎ、矢原姓になっておられる矢原珠美子さんは、ご両親が私の家に下宿しているときにお生まれになったので、珠洲の珠と、ご両親の故郷小松を含む郡名である能美郡の美を名にしておいでるということ、先生がお亡くなりになったあと、祖母のいる母・敏子さんの実家で世話になり、その家には著名人がおいでになった、といったことはあらあらと知っていた。


川端さんの文を、これだけ慕っていた生徒がいて、民俗の指導をなさっていたらしいと、何気なしに矢原さんに送ったところ、急展開。
8日に論文が出てきたと送っていただのを、いろんな方に電話して背景をしらべ、一資料にして、昨日13日に、2社の記者に説明。
それが今朝の新聞に載ったのである。


今度のことで父が亡くなったのは32歳、母が26歳の時であったこと。伯父は母と年の離れた長兄・新木(あらき)栄吉氏のことだった、などが分かった。
その珠美子さんの伯父・栄吉氏は、ウィキペディアによると
新木 栄吉(あらき えいきち、1891年4月24日 - 1959年2月1日)は、第17・19代日本銀行総裁、駐米大使も務めた。
石川県小松町(現 小松市)出身。石川四中から第四高等学校 (旧制)首席を経て、1916年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年日本銀行に入行。
国庫局、大阪支店、ニューヨーク駐在(1922年-1926年・1935年-1937年)などを経て、外国為替局長、営業局長、理事、副総裁を歴任。
1945年10月に日銀総裁に就任、一度も民間などへの転出を経験せずに初めて総裁に就任した。しかし、翌年6月に公職追放によって総裁を辞任。追放解除後の1951年に設立されたばかりの東京電力会長に迎えられ、翌1952年6月には戦後初代の駐米大使に就任したが、「新木通告事件」などにより1年後の1953年12月に解任された[1]。1954年に自らの後任総裁だった一万田尚登が大蔵大臣として入閣したことから、再度日銀総裁(第19代)に就任するが、1956年に病気で総裁を退任する。
とある。


そういうこまごまとしたことも含め、
小松、珠洲、輪島を結ぶ話が一気に広がり、集約されていったのである。


この記事の眼目は、先にも書いたように、
加能民俗の会前身である金沢民俗談話会が結成される2年前に、400字詰め原稿用紙約30枚の本格的論文を書いた郷土の研究者がいたこと、しかも28歳の時だったことを知ってもらいたかった、の一点で
中日の記事は私が調べた話をうまくまとめているし、
北國は、顕彰する目的を、よく果たして下さった文になっている。


もうひとつ触れておくと、飯田高等女学校の生徒たちが昭和12年から20年までの間、朝礼ごとに皆で読んだという俳句や詩などをを集めた「かゞ美」という本を編集したのが、沖谷さんだった(未見)。


すでに、折口を通した話などが舞い込んでいる。
沖谷さんの話は、スタートについたばかりだ。


※珠美子さんが、周りの人はチュウコウ、さんといっているけどタダユキなんですとおっしゃておられた。愛称みたいものだろう。それでチュウコウと打っていたら、ブログでは忠孝になっていた。気づいて教えてくださったかたがおいでた。ちゃんと読んでいる方がおいでる。有り難いことだ。新聞のとおり忠幸さんですので、訂正。