燈籠山ー記事

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7月20日(月)から、北國新聞紙上で「キリコと生きるー日本遺産ー」が始まった。
森田奈々さんの記事、飄々としていて面白い。取材を受けたが、能力の高い人との印象を受けた。スーッと話が通じ、こちらの学ぶことも多い。
1~4回が「あばれ祭」
5~6回が「七尾祇園祭
日曜日が休みで、7回目が「恋路火祭り」
そして、今日28日は「燈籠山祭り」が載った。

担ぐのがキリコで、曳くのは山車、という分け方もあるが、キリコが大型化して担げなくなり、あるいは人不足で車輪を付けて押して歩くようになったら山車になるかというと、そうでもない。
キリコ(切籠)状のバリエーションはキリコというべきで、そこから燈籠山が抜けてしまうと、キリコ・行灯からの伝統が失われてしまう。
キリコ関係でもっとも多くのデーターを収集し、奥能登広域圏事務組合で出した『奥能登のキリコまつり』(平成6年・1994、3月刊)では、キリコの類型・変型に項目を設けて紹介し、多角的にキリコをとらえたー韓国の新聞に紹介されたキリコも載せているー『能登のくにー半島の風土と歴史』(2003年7月7日、北國新聞社刊)でも、燈籠山をキリコ・灯籠の一形態ととらえた。
また、日本海側の海辺の灯りの流れーエリアでの名称は違っていても、灯りが月と競演する海辺ならではの光景の中に、燈籠山・燈籠山車が含まれないことがあっていいわけがない。

このことに、こだわるのは、日本遺産・キリコ祭りに、燈籠山が含まれていないというか、「キリコ」でも本当に著名ものだけが取り上げられているような印象をもったためである。
日本遺産のために設けられた県の委員に、学術関係者として含まれているのは、民俗専攻の県文化財保護審議委員、能登文化財保護連絡協議会会長、元のキリコ会館館長のお三方のはずだ。
うち一人はキリコ文化経験のない金沢の人、もう一方は、役割名の奉灯にこだわり、形状のキリコ名を一切使おうとせず、『七尾市史』民俗編には奉灯を山車に含めてしまっている七尾の人で、内容より肩書きの、いわゆるお役所仕事だなぁ、と思う一方で、かえって一般関係者がドンドン語り出しはじめるいい機会かも知れない、家庭の学問・民俗発祥に近い状況が生まれるかも知れない、と思ったりもする。

記事の一部

「形こそ全く異なるが、燈籠山人形は民俗学上、「キリコ」として扱われる。
珠洲市在住の民俗研究家、西山郷史さんによると、空間の内部に明かりをともすという共通点があるためで、能登町鵜川の袖キリコも同様である。」
祭礼委員長濱野重雄さん(63)の話、副総取締役を務めた青木英樹さん(43)の話は含蓄・示唆に富む話でよかった。
私は年齢不詳、加能民俗副会長も辞めているはずで、公関係の肩書きは無しにしている。
あれ?
書いている人が、今日だけか、これからかもか分からないが、森田さんではなく、
清水という方になっている。