見附島ー二島の変遷ー、そして、明治25年(123年前)の鵜飼塩田作業図

右見附島、左に小島があり、さらにその左に鳥居がある。
見附島までは遠浅。
石を積みあげた道がついていて、島のすぐそば行くことが出来る。
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この写真は、平成21年、6年前。
変遷の注目は左の島、そして石道。

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平成14年以前
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昭和37年。約50年前。
左の島はかなり大きい。
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昭和10年代。
かなり大きい。二島(ふたしま)と呼ばれていたのも納得できる。
石の道がない。

『写真アルバム昭和の能登半島』より。
石が積まれたのは、昭和23(1948)年。

二島図

相当前から、見附島近くの旧家に、左の島(どちらも見附島なのだそうだ)が大きき描かれている屏風があると聞いていた。
6月1日、そのお宅へ寄る用事が出来たので、見せてもらい写してきた、
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横67.5㌢、縦38㌢
屏風ではなく、普通の絵だったが、
なるほど、この時代のものはまずないだろう。
能州珠洲郡鵜飼村見付嶋之真景之圖
明治廿五年秋十月上旬
江南人豊写(印)(印)」
とある。
明治25年は1892年、123年前だ。
120年余で、こんなに小さくなった。
そのうち、もう一つ島があって、二島と言った時代があった,
それさえ忘れさられるときが来るのだろう。
この画は、極めて貴重なものである。

明治中期の塩田光景

そして、当時の塩田が描かれている。
これは、もう、をつけよう、もう極めて貴重な絵だ。
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