義経腰掛け石、板碑のある風景ー中島町豊田町、町屋などーそして蓮能尼の里

今まで、このブログは目の前にあるノートのように使うことが出来、すぐ下書きが書けた。とりあえずメモしておこうぐらいの感じで書くことが出来た。
それが、このブログ機能が、いつの間にか、一々ログインしなくてはならないように変わってしまい、すごく面倒なことになった。
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たとえば、一枚写真を下書きに入れ、
お彼岸のご法話内容を思いついたので、いったん、閉じてそちらへ移ろうとする場合など、
閉じることが、気分的に出来ない。
またキーワードとかを打ち込まないと下書き画面を出せない面倒くささ。
と、ここで置こうと思ったのだが、毎朝の「お朝事」まで時間があるので進める。


写真は七尾市中島町豊田町
19日、ついでに、義経腰掛け石はどうなっているだろうと、訪ねた。
真新しい解説板が立っていた。
七尾市指定文化財
歴史資料「応安三年阿弥陀三尊板碑」
昭和四十一年五月二十三日指定」
高さ一七六センチ、幅一〇三センチ、厚さ三三センチで、蓮華座をもつ円相の中に弥陀三尊の種字を彫り、その脇に北朝年号の応安三年を刻んでいる。
「二月時正」とは春の彼岸の日を示している。
中島町でもっとも古い板碑であり、県内に結集板碑の代表例である。
 應安三年二月時正
「サ」(観音)
「キリーク」(弥陀)
「サク」(勢至)
一結集等」
とある。
どれが板碑なのか分からない。この石が板碑で、古いのだから何も見えないのかな、と思うのではないだろうか。
応安三年て何年?
時正は春の彼岸?
彼岸の中日が時正です。
結集板碑もわからないだろう。
大きさの高さ一七六センチ。相当大きい。
しつこいようだが、目の前の石が板碑で、倒れているとしか思えないのではないか。
ところで、この石は義経の腰掛け石(のはず)。
腰掛け石がどうなっているか訪ねて見て、この看板に出会ったので、
帰ってたしかめざるを得なくなった。


お堂も観音堂のはずで、市姫観音といったはず。
中島町の中に豊田町と「町」名がついているいわれと関係していたはずだ。


中島町史』資料編上巻(平成7年刊)857㌻
豊田町が町と呼ばれているのは、毎月16日の市が立ったためといわれ、市姫」
観音堂がある。
観音堂前にある長さ1.8㍍、奥行き・高さそれぞれ約90㌢の石を義経の「腰掛け石」といっている。
義経・弁慶の一行がこの地を通りかかった時、疲れの見えていた義経に休んでもらうために弁慶が後ろの山から担いできた石といい、その時についた弁慶の指の跡があるという。
腰掛け石は、元々立石であったが、ある時一老人がこの石を台にして別の石で藁打ちをしたため、石霊が怒って夜中に音を立てて倒れたとの話がある。」
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義経腰掛け石。
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市姫観音(弥陀三尊板碑)
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町屋名号碑
解説板
七尾市指定文化財
歴史資料「永和三年名号板碑」
昭和四十一年五月二十三日指定

この板碑は、浄土教の大きな特色として信仰の価値が念仏の数量で計られた。
当時の能登における浄土念仏信仰の一傾向を見る資料である。
承和三年(一三七七年)は北朝の年号である。

承和三 五月十五日佛心
南無阿弥陀
日課 六万編念佛

七尾市教育委員会
これも不思議な文。
先ほどの弥陀三尊の西暦年号は、1370年である。
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蓮如上人の室、蓮能尼の里ー釶打郷
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蓮能尼の里の五輪、宝篋印塔残欠。