一つの時代ー坊守会と、PTAー能登はやさしやー

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ー2005(平成17)年11月、坊守会(紫会・鬼屋)からの帰途-
12日(金)穴鵜組坊守会最終講義。会長宅寺院で講義。3年間の予定でお引き受けし、終えた。
いつからだったろうか、坊守会と関わりはじめたのは…
いつだろうと言ってないで、調べてみると平成7年に蓮如上人講座という形で10組の坊守会で始めたのが最初だった。
それから昨日まで途切れることなくだから、数えで20年。
10組のいきさつは覚えていないのだが、他にでたときは、講師の一人が亡くなり、一人が病気で、長い間、講義が聞けない、その時、それぞれの組に知り合いがいて2つのグループの話が入ってきたのだった。3カ所、2カ所、1カ所時代の6期で20年。
何より有り難かったのは、語るために勉強が出来たことである。
若いスタッフに変わり、若い人に講師をしてもらおうと、こちらからお断りしたこともあったが、出発点がそういう状態だったので、一旦引き受けると、出来なくなるまでやらなければいけない(あるいは、やらせていただく)ものなのだ、と、どこかで思っていた。
一方、任期3年地帯があり、最後の二組は、かつて議長をしていた頃の教務所職員さんからの紹介だった。その人も、すでに退職しておいでる。
教区会に関わっている頃に、そうだ、彼にしようと依頼される。そのラインが無くなっていて、余韻のような形で続いていた関係の終わるときが来た、ということなのだ。
そんなことを考えたり、思いだしたりしながら、雨の能登路を家に向かった。


最後の12日に来ておいでた人以外にも、何とか勉強しようと仕事の合間を縫って、何度か顔を出しておいでたFさん。
僕はコンビニかスパーへ寄ってパンか握り飯を買い、景色のいいところで頂くのが楽しみで、(坊守会へ来る途中で)今日はどこそこの海岸で頂きました。というと、いつも一番前に座っていて、「先生…!お金貯まりますね。」とおっしゃるなど、飄々として楽しかったKさんなどに、さよなら…お元気で、よい道場の中心となって下さい…と言えないままに終える時を迎えるのは、少々寂しかった。
坊守会で学びあった方々と、その後、出会うことはまずない。

PTA連合会

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会場、ラ・ポルト、港の意。
13日(土)は、能登地区PTA連合会で講演した。
これも、昔の同僚が、一昨年の100周年を機に、存在を思い出し、その余韻で声を掛けてくれた。


今朝、道路上の落ち葉の掃き掃除をしながら、思った。
1カ所に集めた落ち葉をちり取りに取ろうと、ちょっと動くと、そこに落ちている葉が気になって、そこを掃き出す。最初に集めた落ち葉は放って置かれたままだ。
このところの話の仕方は、このような感じになっている。
あちらへ行き、そこから別なところに行き、と元へ戻らないまま、もし時間が来たら…話しを聞いている人は、何をいいたかったのだろう?になる。
昨日の講演は、大きなホールで行われた。遠いところは霞んでしか見えない私には、聞いている人がどのような人なのかわからなかった。
その場の雰囲気で話す…ことを主にしてきたものにとって、誰がいるのか分からないのは致命的だ。
知り合いがいないことがはっきりしている場合は、最初から知識話にすればいいのだが、昨日の場合は、pには、教え子や知り合いがいるはずなので、語り・対話が混ざり合うような話にしたかった。
後で懐かしい人が顔を出された。そこで気づいた、PTAだから保護者たちだとばかり思っていたのだが、担当教員、それに各学校長も来ていたらしい。


元へ戻って、
今朝の掃き掃除と同じように、どこへ行くか分からないような話しか出来ない年頃になっているのだ…
また、どこかで、同じような機会があれば、
しっかり構成をした案を練っていかなければならない…。
昨日の場合、校歌を導入に使ったので、「演繹」でずーっとやるべきだった。
校歌から、能登はやさしや土までも、と元禄の話を出し、ポーンと飛んで平城京木簡に行き、それから時代を下ってこよう、としたのだが、
もうその段階で、混乱する人もいるだろう…。

十日の菊だ。