民話と真宗、密教

常田富士男さんと歩く昔話の旅の放送に先駆け、
今月は、この民話が流れますよ。と毎月の月初めに2話分の話しのあらすじが新聞に掲載される。
そこで、気になった点がいくつかあった。
ここに書いていますよ…と新聞をお見せすると、ヘーッと言う人ばかりで、
私を知っている人がこの記事とつなげて見ているとは思えないのだが、
当事者であるだけに、気になる点である。


ほとんどの作品紹介記事は、問題ないのだが
私から見て、どうかなと思ったのは
10話「奇人大野の弥七」(タイトル)
13話 方道仙人
  「仙人が石動山で念仏を唱えると…」(見出し)
  「皇子が元気になるよう念仏を唱えた…」(本文)
24話泰澄と大蛇退治
  「泰澄は村人を救うために念仏を唱え、仏の力で大蛇たちを白山頂上近くの池のほとりに呼び集めた。」
である。



 中身を書かないで言うのも何だが、弥七から見れば、弁当が働いているという方が奇人で、豆を撒いてこいと言われて均等に撒いてくる人は不思議(奇人)な存在なのだ。子供のように知識に振り回されない素直な人を「奇人」といった。取り上げ方によっては「妙好人」である。近現代になれば「奇人」とは言っていない。藩政期の例を挙げれば、かつて竹内玄玄一が『正続俳家奇人談』を著したように、これは多くの俳人の中の奇人ではなく、芭蕉も蕪村も千代女も、俳諧に生きる人は、全て奇人で、士農工商に本格的に携わっていない人を「奇人」と言ったのである。
その目線から見れば、私たち奇人が、この仕事をしてきたことになる。
そこまで考察して「奇人」をつけるのならいいのだが、タイトルにすることによって、現代の奇人感覚が先に立ち、弥七のよさが見えなくなる。


13話方道、24話泰澄は、方道は仙人、泰澄は越の大徳といわれた修験者である。この方々は、修行に励み。験力を身につけていた古代の方々とされている。
彼らは、自分の力で加持祈祷を行い、世の乱れを鎮めたともされている。
ところが、両者ともに、「加持祈祷」ではなく「念仏」が出てくる。

念仏

真宗王国と呼ばれている加賀・能登では、「念仏」といえば親鸞蓮如の念仏、すなわち真宗の念仏である。
泰澄・方道と念仏は関係ないと考えるか、真宗の念仏とは別の「念仏」と見るべきなのだが、記事を読んだ方は、どうだろう…。


「念仏」には、大きく「観想念仏」と「称名念仏」に別れる。「となえ」るの「称」と「唱」の違いはおいといて…。
称名念仏」も「行(祈り)の念仏」と「報謝の念仏」とに別れる。
行の念仏は命終わるまで念仏を称える、百万遍とか数珠繰り行事に見られる念仏で、
報謝の念仏は「仏恩報謝」の念仏で、たのむ、(弥陀が)助ける、はい(信心)、おかげさまの念仏である、

御文五帖十通目

「聖人一流の御勧化の趣は、信心を持って本とせられ候。
その故は、もろもろの雑行(ぞうぎょう)を投げ捨てて、一心に弥陀に帰命(きみょう)すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(中略)その上の称名念仏は、如来、わが往生を定めたまひし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ」



御恩報尽の、仏恩報謝の念仏以外は、雑行なのである。
それらが、同じようにただ「念仏」と書かれている。私は「報謝の念仏」をいただき(いただこうと心がけ)、あちこちで念仏の違いを語っている。
ところが、方道の原作を書いたのは私で、方道は念仏で皇子の病を治したとなっている。
真宗真宗たりうる原点の一つに、念仏を加持祈祷に用いてこなかった歴史がある。病を治すのは医療であり、念仏ではない。
その当たり前のことが、「加持祈祷の念仏」と書かないで「念仏」だけだと、はっきりしないし見えてこないとの、忸怩たる思いが残った。
あらかじめ原稿までチェックするとなると、時間的にも無理だ。

蓮如上人御一代記聞書

22話蓮如太鼓
「大イチョウと並んで生えた松の木は、村人が売ろうと、切り出して運んだものの、急に重くなって動かせなくなったと言われています。(加能民俗の会副会長 西山郷史さん)」解説
解説は、かなり長い文を書いてきた。その一部を、「…さん」とあるように、聞いたか読んだかで、短くまとめましたよ、という書き方だ。
この話しは、蓮如上人の言葉として、次の文がつくことによって完成する。


…動かなくなった、蓮如上人がお植えなさった地を去りたくなかったのだろう…不思議なことだ、と言っているが、「不思議てもなく候。悪凡夫の、弥陀をたのむ一念(一念=信心、これが行の念仏と違う)にて、仏になるこそ不思議よ」と仰せられ候なり」なのです(蓮如上人御一代記聞書)78。



このように、ああでもない、こうでもないと考えている時に、
ある雑誌で
外国で泰澄の弟子のような修行者にあって感動し、今までの行き方を懺悔(さんげ)。
日本に帰ってきてから某寺で小一時間念仏していた。
という人の手記を読んだ。
修行を重んじる宗派の方かと思いきや、真宗僧とあった。


色んな「真宗僧」がおいでる。
その方を知っていそうな知り合いで、この文を読んだ人はいなかったが、ポピュラーな雑誌なので見ている人もおいでるだろう。
念仏の違いを知った上で記事を書いたら…と、提言したとしても、


真宗のお坊さんが、自坊ではなく、わざわざ大きなお寺へ行って、1時間も(懺悔の)念仏しとたったそうやけど、


いついかなる時も、ただ念仏。
一念・報謝の念仏って、何ですか?
と、逆に問われそう…。
ムーー、ム・ム…