春勧化(はるがんけ)、二十五日という日。

22日は「お客さん」ー布教師、布教使の方を私たちのところではこう読んでいるーがこれない日だったので、私が代わりに昼と夜のお話をした。
このような場合の説教を「地語り(じがたり)」といっている。
「他国坊主に国侍(くにざむらい)」時代からの言い方である。

2月は、雪・寒さで、お年忌のような仏事が、まず無い時期である。
その時期に『春勧化』が営まれる。
昔は、宿寺と布教僧とでお賽銭を折半したそうだが、布教使の方でもこの時期に仏事があり、お食事をいただけることが有り難かった。それで、少しでも参詣を集めるために血がにじむような努力をして声を鍛え、話法を磨いた。
マイクのない時代である。冬の風の音に負けない声を作り上げるため、海辺で大声を出してのどを一旦つぶして太い声にし、次に山で木々を渡る緑の中でつぶした声を研ぎ澄ましたという。
そこに、1ヶ月も続く春勧化というお参りが成り立っていた。


現在は、夜は御座で、御消息も拝読するところから、黒衣・五条袈裟でお勤めするが、
昼は着物に間衣・輪袈裟だった(近年は、白衣を着ている)。


いわば、春近く、説教中心の軽くあっさりしたお参りが春勧化で、収穫期を終えた報恩講ー報恩謝徳の重いお勤めへと移っていく。


それで、お説教をする方も、春勧化は、布教を志したばかりの方々がおいでになるケースも多かったかに聞いている。


ところが、現在では、何日ものお説教を語れる方は、若い頃、和上(わじょうー大布教師をそう呼んだ)について話法を学び、数多くの場をこなしてきたベテラン、しかも著名な方ばかりである。


お説教の場が提供してもらえないような駆け出しの修業僧(話しを磨く)の場としても機能していたはずの、このお参りも、
年から年中どこかでお説教をなさっている、引く手あまたの方にお願いしなければならなくなった。
申し訳ないが、何座も、何日も話しが出来る、その一点で、無理してきてもらっている。


今日、夜の御座が無い「春勧化」のことを聞いた。
布教の方は、そちらの方が当然楽である。
当寺では、長い付き合いに甘え…て、昼も夜もお説教していただいている。


逆に、私がもし「春勧化」にお説教をしに行くとしたら、
新米だから…「一宿一飯」でと、思っても、
何日も話すことが出来ない…。


と、近年までの「春勧化」の歴史を考え、
今を思い、
ほわーっとしている。

天神、弁円

昨日、25日の御座宿に、天神画像と聖人・弁円出会いの画が飾ってあった。

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親鸞聖人、山伏弁円(後の明法坊)出会いの画
御伝鈔(本願寺聖人伝絵)には、関東時代の聖人は2場面でしか登場しない。
その一つが弁円の弟子入りで、髪が長いのは、天台系の山伏を示している。
「あだとなる弓矢も今はひきかえて西へ行くさの山の端の月」の明法坊伝承歌がある。
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25日は、法然上人の祥月、蓮如上人、それに本地が観音菩薩である天神・菅原道真公のご命日である。
暮れの25日に飾り、新年の25日にしまう。
遅く飾り、早くし舞うのは、おひな様、あえのこと、いずれも同じ。
この家は、藩政期上戸北方、合祀前の天満宮があった辺りにあった。
学者の家で天神を祀っているのだが、天満宮をお守りする立場の家だったのかも知れない。