『石川県立飯田高等学校百周年記念誌 伝説とロマンの里』

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『伝説とロマンの里』
は次の構成で作った。
取り上げた地を歩けること…を
主にしている。

目次

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『伝説とロマンの里』目次・pdf版

経過

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100周年に、私たち17回生が関わらなければならないようだ、との話しは2006年(平成18)10月13日、馬緤(まつなぎ)の祭りの折に聞いた。
当時、 同窓会長で教育委員長だった人からである。
そういうことになるらしい、と同級生の関係者にそれとなく話しをしていたのが、翌年7月下旬、正式に動き出した。
例年の総会日の翌日の8月17日には学校長・教頭がおいでになり、会長をお引き受けし、進めることになった。



90周年記念を盛大に行ったこともあって、軽く考えていた。
予算があるから、記念式などをしなければならないのだから使ってしまえばいい。
一冊本を作って、式典を行い、誰かに講演してもらえばいいのだろう…。
あれだけ大々的に90周年をやったのに、何でわずか10年でまた行事をするのか?
やることはもうないだろう…。
ぐらいの気持ちだった。
高校生受けをする歌手を呼んで歌ってもらえばいい、
某高ではゴルフ大会をやったというから、いつもやっているゲートボールに100周年記念をつければいいだろう、
などと提案した仲間もいたくらいだから、ずいぶん簡単に考えていた(それだけで終わっていたら、生徒は泣いたろうなぁ)。


閑話休題(さて)
10月4日にOBと打ち合わせ、その月には出版関係の会社で飯田高校卒業生がどれだけ働いているかを調べ、結局卒業生の一番多く勤めている(ほかは0だった)出版社に決めていたくらいで、
実行委員会会長をお引き受けした時点で、郷土に関する本の出版を事業の一つに入れることは規定事実だった。
このブログもデーター集めを一つの柱とし、資料を集めながら構成を考え続けた。
31日には、市教育長、高校、能登町の関係者を訪ね、協力・執筆を依頼した。
11月には実行委員となる17回生7人を選んで、こちらの方は何度か会議を進めたのだが、
2008年は、珠洲実業高校と飯田高校の合併もあったりして、100周年の方は、何も動きがなかった。
2009年末までに、とりあえず執筆メンバーを選び、地区ごとの伝承、項目選びを行った。それらの中から1項目1000字程度になるものを集めていくことにした。
比丘尼や平家伝説のように、各地区にまたがるものは2,3項目にせざるを得ない、書きながらの調節になる。
2010年早々に執筆趣意書、要項などをつくり、執筆予定者の勤め先などを訪ね、それぞれに50枚のコピーと20枚のカードを渡し、調査・写真撮影などを依頼し、私は全員がこけたとしても出版出来るよう、調査を続けた。
2011年、地名を含む項目案を立てていったら、500項目くらいになったのを、絞り込み、ようやくめどが立ったので、5月7日、最初で最後の打ち合わせ。
8月6日に執筆予定者に項目ごとの資料を詰め、12日に最終確認をとった。
結局旧能都町10項目、内浦15項目、宝立15項目、上戸・飯田・直10、正院・蛸島15項目、三崎15項目を書いてもらい、私は飯田・若山・西海・柳田・町野60項目を、全体のバランスを見ながらまとめることにした。
12月いっぱい、締め、3月いっぱいに全体を統一したり見直したりして出版社に送る…。
これは現実には無理だった。
たとえば4地区に同じ人物が出てくると、どうしてもほぼ同じ前書きが並ぶ。
それに皆仕事を抱えていて、現地に行って確かめてくるどころか、書くだけで精一杯だということも分かった。新たに挑戦するには3年は必要なのだ。
提供した資料は、藩政期の紀行文、郡誌、著作権の関係で私が書いたものに限られていたこともあって、文体の統一もあり、下書きのつもりで気楽に書いて欲しいと言っていたとおりに、すべてを清書することになった。


写真の左側上が、渡した資料(5人分)と原稿。
上右は、原稿。
下左は、初稿。文字が小さく大きくした。
その右が、校正原稿である。
表紙も何度も提供してもらい、最終的に上のものになった。


帯部分は、飯田高校の色、藤色である。


さーて、これをどうしたものだろう。
右の校正原稿は紙質もいいし、捨てがたい。
かといって、紙が山積み(和本、刷り物、襖の裏張りなども結構ある)になっているところに、さらにもどうか…


記念誌の編纂室が、私の部屋だったところから生まれた
悩みだ。
学校へもっていこうか。