曽々木の新景観

23日(月)の8組坊守会(会所・輪島市名舟・名船寺さん)で、夏の予定は一段落。


帰りに通った曽々木~真浦間にある「八世乃洞門」隧道は岩塊を掘り抜いたトンネルで、昭和38年に開通したものだが、2007年(平成19)3月25日の能登沖地震で、通行が規制され、昨年岩塊を迂回する新トンネル「八世乃洞門新トンネル」が完成した。

まだ、暑い日が続いているものの、どことなく夏の終わりを感じさせる海辺ー数々の思いでのある海辺がどのように変わったのかー能登ブーム時の中心だった曽々木を歩いてみた。

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「夫婦がっと(蛙)岩」の案内板があった。
中程右の二つの岩が「がっと」らしい。
私たちのところでは、蛙のことを「がっと」という。
アクセントはなく、だらーっと「がっとぉ」。

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「麒山瑞麟和尚」像。
新トンネルが出来る前は、道路の山手側にあった。
和尚は、海蔵寺珠洲市真浦町)第八世。
曽々木の難所で多くの人が波にさらわれたりして命を落とすのを悲しみ、安永9年(1780)、岩場に道をつけようと発願。加越能を托鉢し、13年後に一筋の道を完成させた。
当時の記録では、片足幅分の、道ともいえない道だったという。如何に固い岩で、如何に難工事であったかを物語っている。



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梁塵秘抄』(治承3年・1179、後白河法皇撰)300首目に
「我らが修行に出し時、珠洲の岬をかい回り…」が載る。
能登・海の修驗道の中心地の一つが曽々木海岸であったのだろう。
事実、修驗道の開祖・役小角(えんのおずぬ)がここで修行したので「小角(おずぬ)ヶ浦」という、との記載が藩政期の文献にある。

坊守会では、『御伝鈔』「山伏弁円済度」の部分を味わった。
人(聖人)を殺めようとしていた人物が、出会いによって、翌年には帰りの遅い聖人を心配して迎えにいくほどのこころに変わる…、その縁となる弁円の「懺悔」を考えあった。
「法(のり)の師を迎へにここにあしひきの山は年にも変わらざりしに」。

結果的に、今日の勉強を反芻する、ミニ散策にもなった。
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いずれも「福穴」。
この大きな洞穴の奥に修験の本尊「不動明王」が安置されている。
元気の良かった頃は、手探りで明王の場所まで行ったものだったが、危なくて懐中電灯で照らしながら歩かなければならない所である。


ところが、今は、センサーで明かりがつくようになっており、足下にさえ気をつければ、海中電気を持っていなくても行けるようになっていた。
入り口から眺めて帰ろうと思っていたのが、思わぬ事で、奥まで行けた。

ただ、「福穴」の「福」にかこつけた説明は軽薄で、
厳しい修験の地、『梁塵秘抄』、家持伝承歌などの歴史ロマンをなくしている。
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菊田一夫原作、NHK連続ラジオドラマ「忘却の花びら」が映画化されたとき(昭和32年東宝映画)の舞台。
このトンネルでヒーロ(小泉博)とヒロイン(司葉子)が口づけをしたので、それ以来「接吻(せっぷん)トンネル」と呼ばれるようになった。
この映画で曽々木ブームに火がついた、といわれている。

曽々木は、同じ菊田一夫原作、園井啓介、桑野みゆき主演「あの橋の畔で」第3部(昭和38年、松竹映画)の舞台にもなった。
この映画の脚本をお書きになったのが山田洋次氏だと知った。
同氏を能登の海岸にご案内したとき、台風が過ぎ去った後で、空は曇り、海岸は汚れていた。
きれいな曽々木の海に出会えなかったことが心残りだったが、氏はとっくに、この海を知っておいでたのかもしれない。