飯田高校同窓会総会ー平成2年(1990)の飯田高校ソフトテニス部の活躍・男子ソフトテニス部の復権ー

16日、午前中は野々江城山墓地でのお墓勤め。
小雨模様に近い気象状況で、暑さをあまり感じない。
午後、飯田高校同窓会総会があり、百周年実行委員長として初めて皆さんにお伝えすることになるいくつかの具体的な話をするため、ぼーっとしながら会場に向かった。
いくつかの事業の中で、650ページの大著「飯田高校90年史」に続く10年史を作成することになっている。
90年史では、通史のかなりの部分を元校長さん方がお書きになった。
私は早くに教員を退職していたが、珠洲焼資料館にいたことや、あちこちで文章を書いていたので、執筆に関わることになり、昭和33年から昭和43年分の「第二章転換期を迎えて」を書いた。


誰がどこを書いたのか、文責をはっきりさせておかなくてはならないと何度か主張したのだが通らず、通史だけ、誰がどの部分を書いたのか分からない本になっている。
そういうこともあって、書くだけ書いて、後は一切関わらなかった。


ところが、出来上がった本を見て驚いた。
主義主張を前面に押し出したり、執筆者が自分を誉めまくっているのは大目に見るとしても、
「部活動の記録」に、平成2年の、男子ソフトテニス部の北信越団体初優勝、同じ年の冬の県インドア大会個人初優勝が載っていなかったのである。
その頃を通史で担当した方も、この記念すべき出来事には触れず(気づかず)、平成8年のソフトテニスの活躍から記している。


単純なミスなのだろうが、校史に記録が残らないということは、いつか、出来事そのものがなかったことになってしまう。
どれだけの人に配られた本かは分からないものの、訂正文を送ったり、残った本に訂正文を入れる程度の手当があって当然の事態だったと思う。


その初優勝時のテニス部顧問が私だったので、何ともやりきれない思いを抱き、その後も、ズーと気になっていた。
本の担当者が、学校に正式に伝え残していく本には、ちゃんと書き加えるという約束をしたことで、一応納得はしたものの、その本を確かめることがないままにいた。
それが、先に書いた「2・7の市」を調査した高校生関係の記憶や、関係者が変わると忘れられていくことを何度か経験してきたので、
まてよ、訂正したという本が現在の担当者たちに伝わっているのだろうか?、との疑問が湧いた。


案の定、そんな本があるということを聞いている先生方はいなかった。


話はもどり、
執筆した昭和33年から43年の期間は、私の高校生時代と重なるので、かなりの写真を提供したのだが、それが帰っていない。
そのうち同窓会館、同窓会室を作ったときのために、資料データーとして残したようにも思うのだが、その分野の担当者は小松の方に移動なさっていて、すぐには確かめようがないー
写真の事後処理がどうだったか、当事者だった私でさえ分からなくなっているのである。


総会には、その時の関係者が相当数、姿を見せておいでたが、
100周年に向けて、飯田高校が県下2校(もう1校は「金沢三校」)の男女共学実験校で、他の高校より1年早く高校3原則下の新制高校になったエピソードとともに、
ソフトテニスの輝かしい歴史が抜け落ちていること、追加10年史には、明らかな間違いを訂正という形で加え、正確な校史を残す旨を述べた。
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初優勝を伝える新聞記事、平成2年(1990)5月19日
「飯田(男子)が初優勝 北信越高校軟庭女子の鹿西は2連覇」PDF版
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平成2年が抜けた「部活動の記録」。PDF版
何十人もの方々が、このことを聞いて、記憶の片隅にでも留めてくれたはずである。


なんだか、長年のつかえが取れたような気がして、懇親会では、自己規制禁酒中だったのに、ついついビールを飲んでしまった。 


なお、講演は県民大学校能登校での講義を聴こうと思いながら、聞くことの出来なかった西仙関先生のお話だった。


同窓会を終え、家に電話を入れると、
少ない部員時代の女子ソフトテニス部キャプテンで、ほとんど一人でテニス部を支え続け…、結果的に平成2年の活躍に繋いでくれた、
現在都立の学校で先生をしている教え子がご主人と一緒に来ているとのこと…
あまりのタイミングのよさに、ちょっと驚きながら、家に帰り、思い出話に花を咲かせた。


そして、今朝、作り話めくが、
テニス部の生徒たちが次々同窓会にいくため、たぶの木の元に集まってくる夢を見た。