二つの光源寺ー越後国府光源寺、能登下曽根光源寺ー

コンゴウ会でのお話に東往来沿いにある中能登町藤井・徳蓮寺さんに向かった。
教養的なお話ではなく、「自信教人信」の信ーどうして信が見えないのか、うなずけないのか、結局自分が見えないのはどうしてか…
を、盆はじめの行事であるコンゴウ会で問おう、と決め、
いろいろ考えて見たのだが、構想がまとまらない。
現地に行って、風土の中で考えようと、
真宗聖典』『親鸞聖人行実』『真宗ハンドブック』『鹿島町史民俗編(抜き刷り)』の諸本と、
ファイル「今年」「推進員協議会」「春秋彼岸會」「あう・遭う・値う」「妙好人」「真宗と『『平家物語』』」「海・親鸞聖人」をカバンに詰め、鹿島へ向かった。

中能登町と書いたり、鹿島と書いているが、おじゃまする一帯は、
和銅6年(713)の平城京木簡に「越前國登(レ点有)能郡翼倚(里)」「庸米六斗 和銅六年」とある、翼倚(よき)、後の表記・余喜付近である。
邑知潟を擁するこの一帯には、
石動山碁石が峰山系、眉丈山系が走り、潟を取り囲むように多くの観音札所が成立した。
邑知潟の南・羽咋の海近くは、観音淨土(補陀落淨土)とまで意識されていた。
その中心地域と目される曽祢に、光源寺さんが進出した。
このお寺は先日訪ねた越後国府光源寺さんとも深いつながりがある。

行政上、曽祢・下曽根羽咋にあり、そのため、気にはしていたのだが、『鹿島町史』で触れることがなかったエリアである。
風土の中で考えを巡らすには、ここから出発するのがいい…。


少し歩いてみると、
お話に向かう藤井の徳蓮寺さんが、元は石動山系の要所を占める寺院だったことが浮かび上がってきたり、風土を通して感じるものは多かったのだが…
どこまで行っても、「知」を楽しむに…にとどまっている。

下曽根光源寺さん

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「真興山光源寺由来」
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山号額下の龍の彫り物がすばらしい。
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経蔵。

越後国府光源寺さん

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パンフ部分
パンフ本文