周りで見た「燈籠山(とろやま)」と、燈籠山の変遷

燈籠山祭りは20,21日の両日。
山車は、19日の夕刻から町内をまわる。
寄付を貰った家々へのお披露目である。
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当寺は西寺町に属しているが、西寺町は大町とで一台の山車を有しているため、その山車(ヤマ)を、「西大(さいだい)町のヤマ」と言っている。
昔は、山車をお寺の境内で組み立てた。藤蔓を切ってきて、その藤で台を締め付け延べ3日間の巡行に耐えることが出来るようにした。
今、思うと、年に一度は藤切りをし、山の美化につとめていたのだ。
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当寺の東側は、鍛冶町である。それで、鍛冶町の山車がすぐ側までやってきて、しばし休んで帰って行く。
昔は、デンデンカッカ、デンデンカッカ、デンデンデコデンデーン(ソーラ)を繰り返した。
ところが、今年は市役所前の大通りに山車が並ぶことになったため、休んだ後、戻らないで前の通りをそのまま進んでいった。
慣れとは恐ろしいもので、すごい違和を感じた。

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当寺と飯田城山の間の道路を通っていく各町内の山車。
この祭りは、キャーラゲ、鉦・太鼓・笛による祇園囃子が綺麗で、男性がヤッサー・ヤッサーと山車を曳く間に、女性がハアーヤッサーと合いを入れる。それらの調和がいい。
しばし、祇園囃しとヤッサー・ヤッサー(サーヤッサー)の声に包まれる。

燈籠山の流れ

はじめて電線が通ったのは、大正初期。
それが至るところに張り巡らされ、次の写真にあるような大きな燈籠山は姿を消した(現在は一基復活)。
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「南町曳山昭和十一年度」と書き込みがある。f:id:umiyamabusi:20090725221059j:image
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燈籠部がなくなり、このような屋根の形の山車が出るようになった。
のちには、屋根の前後に、竹を利用して多くの花ビラをつけるようになった。
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現在の形。
今は、町内ごとの要所にあらかじめ舞台を設置し、子供の踊りは、そこで披露されている。
かつては山車の前部に舞台を作り踊った。枠木・舞台用の板などは山車の基部に入れてあり、幕をまくってテキパキと舞台造りをするのである。
その時の若者たちのキビキビした動きが、男の子にとって、一種のあこがれだった。
さらに格好良かったのが、山車を止めたり、辻回しを「てこ」で行うテコ役だった。引き手の方の力が勝り、「テコ入れ」が遅れると、山車は四つ角の家に突っ込んでいってしまう。

ミミズク