荒山峠~一刎(ひとはね)~臼ヶ峰~老谷の大椿ー穴水・鵜川組坊守会研修ー

14日(火)、穴水・鵜川組坊守会で11名の方々を引率して次のところを巡ってきた(レジメ(PDF)資料(PDF)
①別所岳~道路沿いのお寺(旧田鶴浜町~蛇ケ池。お東8ヶ寺、お西5ヶ寺、曹洞宗一ヶ寺)~
②荒山峠~③一刎・八幡宮蓮如上人筆柱の御名号、妙好人「のよ」の墓、蓮如道・野立ちの地蔵~
④臼ヶ峰・親鸞聖人像~⑤老谷大椿…この先は時間切れ。
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蛇ケ池の白鳥は、島の近くからすぐ側までやってきた。
その様子を「白鳥の湖」だね、と言ったり、「スワンの涙」だね、と話し合った。20歳の頃、ボリショイ・バレー団の「白鳥の湖」公演を、静岡駿府会館で見たことがあるのだ(入場料は、確か600円だったと思う)。
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この道の下に二車線の道路が出来、現在案内板も県境を印す道標もない。
能登への第一歩を印す」の見出しで始まる「パーシバル・ローエル」の案内文は明治22年(1889)年5月8日にローエルがこの地を通ってから、
数え100年目の記念日昭和63年(1988)年5月8日に設置されたもので、それだけでも貴重なものだった。ー撮影は2005年4月27日ー
本文は上記の「レジメ(PDF)」に記しておいた。
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蓮如上人が足を運ばれた最北地が、この一刎八幡宮だと言われている。
「宝徳元年御年35歳、3日間御滞留。御出立のみぎり
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神前の両柱に一方は南無阿弥陀仏、一方帰命尽十方無碍光如来、南無不可思議光如来九字・十字の尊号を御書なされ、4月17日と御染筆ましまして…」(一刎八幡宮縁起)。
その柱の御名号である。
本地垂迹思想では、本地阿弥陀如来、権現八幡神
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妙好人「のよ」のお墓前を通り、蓮如上人野立ちの地蔵をたずねる。


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ここは臼ヶ峰聖人像の麓。
倶利伽羅峠越えの北部の往来が臼ヶ峰越えで、
大伴家持(おおとものやかもち)が「志雄路から直越え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船梶もがも」と読んだ志雄路へ抜けたのが臼ヶ峰往来だとされており、御上使道でもあった。
家持歌碑の右手に、この中西進氏揮毫の歌碑が建つ。
歌は万葉集冒頭雄略天皇の歌「籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ…」
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メチャメチャ暑くなってきたが、志雄側見砂(みしゃご)へ、なんとしても今回は抜けてみようと思った。
今まで2、3度志雄側から臼ヶ峰を越えようと思ったことがあり、聖人像の下まで行ったはず…だと思い込んでいた。
その記憶では、銅像からせいぜい200メートルぐらいで人家のあるところへ出るはずだった。
ところが、行けども行けども山道が続く。
写真は像から5~600メートルも志雄側に向かったところ。
すぐ、志雄側へ出るよ…!の言葉を信じて、杖を突きながらの方も含め、何人かがついてきておいでる。
が、人家は見えそうにない。
あきらめて引き返した。


あとで、地図を確かめると2キロ近く歩かないと志雄側の上り口に出ないことが分かった。
そこでようやく、
能登側から臼ヶ峰が喧伝されていない理由にも気づいた。


久しぶりに歩いた(一キロちょっとなのだが…)ので、19日の今日、
まだ足が痛い。
※註「資料」の出典。
②「荒山合戦」(奥村哲)⑤「道閑」(堀田成雄)以上『石川県大百科事典』(北國新聞社)。
奥村哲氏とは昔々、2、3度研究会で顔を合わせたことがある。
堀田さんとは石川県歴史博物館の古文書地区委員で御一緒した。その縁から羽咋市の粟生公民館でお話しした事がある。
懐かしいお名前に出会えた。
羽咋市本念寺・臼ヶ峰太子縁起(「太子信仰と北陸」石川県歴史博物館平成9年秋期特別展図録)