三ツ屋(羽咋市)からの夕陽

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4日続けて、羽咋(1度は金沢まで)間を往復した。
4日目は、中能登町(旧鹿島町)徳前・東向山仏乗寺さんを会所として行われた12組門徒会研修会でお話ししたあと、羽咋に向かった。
研修中に夕立のような激しい雨が降ったが、羽咋では夕陽が綺麗だった。
シャッターを切ったところが「三ツ屋町」。
27才の頃、一時期この町に住んでいた。
周り中が農村だった当時に比べ、左手の国道沿い一帯には大型店舗が建ち並んでいるが、
夕陽は変わらない。
お彼岸の頃にはこんな綺麗な夕陽を見ながらいたのだろうか、と戸惑いに似た気持ちを抱いたが
夕陽が沈む時間帯は、大概、羽咋工業グランドで外野ノックをしていたのだ。


羽咋での夕陽の想い出は、グラウンドからと
下宿している生徒たちを誘い、ギターを伴奏に千里浜で歌いながら、夕陽を眺めた
数シーンに尽きている。


初任校を知ったのは、新聞の朝刊誌上だった。
羽咋工業」。
ともあれ、住む場所を確保し、学校に通わなくてはならない。
全く知り合いのいない地で、学校関係者の家がとりあえずの下宿先になった。
そこには、工業の生徒ー珠洲・柳田・能登島出身者ーが下宿していた。
当然夕食が一緒になる。
下宿先では気を使い、晩酌として酒一本ずつをつけてくれた。
ちょっと前まで、時には加茂川原で棒に釘をつけてシケモク捜しー煙草の吸い殻を釘で突いて集め、それをほぐして新聞紙で巻き、一本の煙草にして吸うーをしたりしていた学生だった一人だ。変化が劇的すぎた。
下宿先までずーと生徒といるのも
毎日が修学旅行状態だということもあって、まもなくアパートを見つけて引っ越しした。


そこは、天井裏に雨水が溜まり、棒で突っつくと、ザーと水が落ちてきたり、
休みの時など、炊いたお米に黒い小石が混じっていて、その石が柔らかく、変だなァと思っていたのが、まもなくネズミの糞だという事に気づいたくらい、ネズミが多く、
そのうちネズミ捕獲がすごく上手くなったり、
生きている実感をいつも味わっておれるアパートだったのだが、
色んな方が住んでおられ、
生徒が西山のところに遊びに行って、(西山がいるときはいいけど、いない時に)住人との間に何かあったらまずいという、生徒指導部の杞憂があって、
次に、雪になると下から雪が吹き込んでくる、畳が敷いてあるだけのガレージの二階に間借りすることになった。
ヤンマーとかトウユウとかボーやとか言っていた仲間の教員たちと生徒たちと、リヤカーを数台引きながら引っ越しした。
トイレも洗面所もなく、どうしてこんな部屋を作ったのか理解が出来ないガレージの二階。
洗面用具は職員室に置き、学校で顔を洗った。
男の先生しかいなかったから出来たのだ思う。
面倒だからパジャマの上にズボンを履いていったら、パジャマの裾がはみ出たことがあって、下着パジャマはそのうちにあきらめ…
大小便は近くの喫茶店で済ませた。
そんな生活をしていた時、
ー今から考えれば高度成長期がはじまっていたのだ…ー「三ツ屋」に教員住宅が建ったのである。
教員住宅は家族用で、独身の私には関係なかったのだが、みかねた…のもあったのだろうし、3棟のうち1棟しか埋まらなかったこともあってか、独身の私が入ってもいいことになった。隣には羽松高校の真田校長一家が入っておられた。


工業へはバスで通った。住宅には、電話がなかった。
ある日、バスに乗り、オハヨーといってどこかのクラスに入り、黒板に字を書きながら一限目の授業をしていた。
そのとき、耳元で「サトシー!」と呼ぶ声がした。
同僚が二人立っていた。授業しているはずなのに同僚が側にいる。事情が飲み込めない。
学校では授業が始まったのにサトシが来ない。
何かあったのかも知れない…見てこいということになって空き時間の先生が様子をうかがいに来たのだった。
こちらとしてはちゃんと授業をしている。寝ぼけながら回りを見廻すと三ツ屋住宅の中だった。


はじめて建物に入る時、建築科のトウユウさん達も一緒に見に来た。
押し入れの上の戸棚の戸がちゃんとついておらず、下に置いてあった。
トウユウは説明した。
新しい建物は、1箇所だけ最後の手を入れずに残すものなのだ…。
民俗学に関心のある私は、依頼主が建物の最後の仕上げをするらしい、とあちこちで話した。
ずいぶん経ってから、あれはでたらめだ、とトウユウが言った。


変わらぬ夕陽…と共に、色んな事が思い出された。
30年以上経った方形・平屋の住宅は、夕陽にしずんでいくように静かにたたずんでいた。