節談説教(築地布教大会)
愛知県の友・羽塚孝和氏から送られてきたポスターとチラシ。
チラシに書いてある冒頭の文が「「節談説教」は、浄土真宗独自の用語であり、まことに優れた技術による布教法である。」である。
節談説教研究を長年続けられ、節談説教の素晴らしさを世に問い続けてこられた関山先生の冒頭の文に
「浄土真宗」独自とあるが、
そう表現しなければならない出来事が起こっている。
後の方に参考としてあげた私の文、
「3、実施の期日及び場所」では「真宗の仏事」と書いた。
(『石川県の民俗芸能ー石川県民俗芸能緊急調査報告書ー』石川県教育委員会・平成15年3月刊。
民俗芸能に含むのは抵抗があったが、
この素晴らしい説教を報告書に残しておくのは一つの使命だと思い、
30項目の中に入れた。
金沢善性寺蓮如絵伝絵解きー執筆・橘礼吉ーも含んでいる。
なお、能登の御崇敬〈ごそっきょう〉は、この本の前に刊行された
『石川県の祭り・行事』でとりあげさせてもらった。)
真宗は真宗。より詳しくいうなら「真宗大谷派」「浄土真宗本願寺派」(以下略)が正式名称で、いずれの派にも冠されている「真宗」と略して言うことが多い。
パンフ記事
ところが某国立博物館(とぼかして書いて置く)の民俗音楽専攻某博士が、
某小劇場での公演パンフに
真宗は浄土真宗ではなく真言宗を略したーと思い込んでいたのだろうー真言僧が新たな節談説教をはじめたと
書いたのである。
私が静岡にいた頃、私の部屋に置いてあった『真宗概説』を見て、
西山君は真言宗のお寺なのかといった先輩がいた。
多分、同じ発想だったのだろう。
そうとでも考えないと…お粗末すぎる。
節談説教の詞章には、親鸞聖人の和讚・『御伝鈔』・お文など、
いずれも真宗(浄土真宗)教義の要がちりばめられているし、
あとの[参考]であげた「記録・文献」も全て真宗のものである。
長い歴史を持つ節談説教の談議本のどこにも真言の言葉は入っていない。
オンバラジャワユウセイソワカとかギャーテイギャーテイハラギャーテイなどと語った
節談など存在しないのだ。
「御名号…六体の仏に…」 能登節談説教
確かに弘法大師行状には、加持祈祷につながる実践と奇瑞話に溢れ、多くの伝説があるが、
奇瑞に対しては、法敬坊が
「御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なること」と、
申され候えば、蓮如上人、その時、仰せられ候「それは不思議にてもなきなり。
仏の仏に御なり候は不思議にてもなく候。
悪凡夫の、弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ」と、
仰せられ候なり」(蓮如上人御一代記聞書78)
と、「もの」、すなわち単なる方便として利用してきた流れがある。
その上で、「聞」・説法の真宗ー在家仏教・他力のいわれを解く節談説教は、
伝奇を説くのとは根本的に違っている。
関山氏の文は短いが、そこには、著名な民俗音研究者なる人物によって長年の研究が踏みにじまれた悔しさと
無念さがほとばしっているように思えた。
「「節談説教」は、浄土真宗独自の用語であり、まことに…」…。
節段は真言だとし(真宗という言葉を知らなかったか、真言宗の略と思ったかの無知でしかないのだが…)、著名劇場にまで紹介した民俗音楽研究者が陥っているのは「慢」だろう。
関山先生のような先学がおいでるのだから、聞いて慎重を期せば…とは、
今だから思うので、世に出て間違いに気づくということは往々にしてある。
伝統もなく、意味そのものが違う行事を紹介し、行ってしまった傷みを、その人はどう受け止めていくのだろうか…。
[参考]「能登節談説教」PDF『石川県の民俗芸能』石川県教育委員会平成15年3月刊