地震見舞いー蘇る高校野球・羽咋工業高校野球部


地震見舞いに 
学生時代の後輩、
友、教員仲間。
研究者の方々。
教え子は、初任の羽咋工業の生徒、大学へ旅立つ前に一緒に城山に登った辞任直前時代の子が訪ねて来たりで、
自分の歴史が、この一週間ほどで、
ざーっと流れていくようだった。


教員2年目に、野球部の部長になった。
当時は県代表が更に福井県代表と戦い甲子園へ出場するという制度だったのだが、部長になった年は各県一校代表の55回記念大会の年にあたっていた。


当時の羽咋工業高校は、エース佐田を擁し、練習試合で20勝をあげる強いチームに仕上がっていた。
夏の県大会は、勝ち進んで決勝までいったのである。
勝戦兼六園球場最後の試合でもあった。


選手らは毎日ユニフォームその他を持って汽車に乗り込み、金沢駅からバスで兼六園球場に向かった。
その引率を私がした。
連日のことで、選手の肉体、精神面も極限に達していたと思う。


準決勝に勝ち、下宿(実際は間借り)先に帰ると、大家さんが、市から臨時予算をつけたと電話があった、駅助役が甲子園へは臨時列車で…と頼みに来ていった、と告げる。
学校の方ではパレードーをどうする、とかで会議を開いている…などの話が聞こえてくる。

新米部長でさえ、次々とかかるプレッシャーに押しつぶされそうになるのに、
当時、県高校球界最高のピッチャーで、一人で投げ抜いてきた佐田にかけられ続けた期待の大きさ…、そこからくるプレッシャーは、どれほどのものだったろう…。

準決勝に勝った後、彼は家近くの駅に降りずに羽咋まで来て私の下宿でしばらく過ごした。
気力が、かろうじて疲れ切った体を支えている…
暑い夏だった。


新聞は大きく能登から初の甲子園か!と書き立てていた。


勝戦は、8回まで4対2で勝っていた。
8回裏、送りバントを佐田は軽快にさばいてサードの黒田に送った。
パ・パ・パーン。典型的なサードタッチアウトのリズム音が響いた。

ちょっとの間をおいて、サード審判はセーフのコールをした。
エッ?という表情を見せ、黒田はファーストへ転送したが間に合わなかった(と記憶している)。


その回、4点を入れられ、6対4で敗れた。


試合が終わり、閉会式になったころ、高台の兼六園球場ライト側が夕焼けで真っ赤になっていった。
あの時、行進や式をぼんやり追いながら、夕焼けを見つめ続けていたような気がする。


その夜は下宿へ帰る気になれず、やはり家に帰る気になれないでいた監督と学校の保健室で寝た。


夏期休暇で家に帰ると、スナックを開いていた同級生が、
ニッシャマが甲子園行ったら応援にいくげぞ…と大型バスを借りる予定でいたとか、皆でTVの前で応援していたという話を聞いた。
準々決勝あたりから放映したらしいのだが、TVに高校野球をやっていることをその時始めて知った。
それにしても黄色いタオル一本しかないがか…?といわれて、TVというのはおそろしいものだとも思った。
一本きりの黄色いタオルで、全試合汗をふいていたのである。


野球部は、新メンバーで夏合宿に入り、県代表と熊本工業の試合は学校のTVで見た。
県代表は負けた。その後、佐田でないと勝てんのや…という年配のファンの声をどこかで聞いた。


その年、ふらりと甲子園へも行った。今までの生涯で、ただ一度の甲子園…。
前日、江川が1:0で負けて去り、静岡高校の試合を応援した。
教育実習で教えた子たちが、靜高の3年生になっていた。


佐田からかかった見舞いの電話が、次々と記憶を蘇らせる。 


応援バスを出すと言ってくれていた同級生は、随分前にガンで亡くなった。


そして、こんなに一挙に会いたい人々と言葉や手紙・葉書のやりとりがあるなんて、
ある体験から、プレ「淨土」みたいだなァ…と思っている。