父、示寂の時

平成3年3月11日
その日は雪が降った。
朝5時頃に付き添っていた母から様子がおかしいとの電話が入り、
妻と七尾へ向かった。
当時の3月11日は高校入試日で
その日は国語の試験があった。
午後から採点しなければならない立場にあった。


もう一つ、隣のお寺の住職の葬儀がこの日だった。
導師を頼まれたがやったことがなく、
父がいるのに代わりというわけにはいかない
と強く辞退し、
導師は当時の組長(ソチョウ)さんが行っていた。

  
色んなことが重なっていた日だったが、
共に暮らしている人が危篤らしい…
という状況ははじめてことで(祖母の時は京都にいた)、
あらゆる判断を越え、
すぐに七尾に向かった。
雪道の馬渡峠を登りきれず
途中から海岸道路を走った。


その二日前に父を見舞ったとき、
「郷史(サトシ)、明後日、月曜日にはウチに帰るぞ…」と
体を半分起こし、
元気だ、何とか帰ろうとする態度を見せた。
「無理だよ、もう少し検査してからだよ…」
と答えていたのだった。
 

入院のきっかけは、
諷経(フギンー葬儀)に行って熱が出、
そのうちゆっくり体を検査したらといっていた七尾中時代の同級生が経営する病院に行ったのだ。
風邪の検査のはずだった。
それが長引いた。
そのうち、医者から、原因がはっきりせず退院までに6ヶ月ぐらい要するのではないか…、
といわれた。


6ヶ月間の七尾への見舞い通い、
父の代わりにしなければならないお寺の仕事…、


教員の方は進学係、
二つのクラブ顧問、
そのうちのソフトテニス北信越でトップクラスのメンバーが集まっていた。
教員として油が乗りきっているときだった。
それに町史やいくつかの原稿も抱えていた。


なりたくてなった教員を、
19年で辞めなくてはならないのかな…
とふと思った。
相談しようにも、
相談相手の顔を思い浮かべると、
どういう答えが帰ってくるのかが全て読め、
相談する気になれずに本堂で二日間阿弥陀さまとお話しした。

  
様々な想い出が浮かんでは消え、
誰もいない本堂で泣くだけ泣いて、
辞めることに決めた。


一旦、辞めようと思いだしてからは、
続けていこうという気持ちを取り戻すことがなかった。
 

ソフトテニス・冬期北信越大会が開かれる長岡に生徒を引率して向かう途中で病院に寄り、
父に「教員辞める」と告げた。
父は、ひとこと「そうか、退屈やぞ…」と言った。


人事異動の迷惑にならないように、3月1日に届くよう
退職願を県教委に出した。 
 

そして、10日後に様子がおかしいとの電話が入ったのだ。
日曜日に見舞いに来ていた弟は、
上野へ着いたところで父の還帰を知り、
そのままこちらにとって帰った。
 

葬儀の日  

葬儀の日、竹の杖をついて立っている喪主の私を見て、
義妹は、
義兄さん(私)があんなにげっそりしているのは、
一人だけ父が助からないことを知っていて、
回りに心配かけないように隠していた、
その心労なのだ…
と思っていたそうだが、


徹夜で期末試験の採点をし、
葬儀の段取り・総代の弔辞作り…
などなどで
休んでいないためだった。


国語科の先生方が、
採点を手伝いますと言ってきてくれたときには、
全て終えていた。


田舎のこと。
葬儀に向けて学校に行っていない間に、
続けるのだろうか辞めるのだろうか、
先生方の間では随分話題になっていたらしい。

  
中三と中二の子供には辞めることを伝えていた。
その子供にお父さんはどうするのだ?と
聞いた中学校の先生がいた。


中学生の子がウソはつけない。
辞めますと答えた。


そこから勤めている高校にパーと話が広がった、
ということを
学校へ行って聞かされた。


ところで
今まで父の年忌は祖母の年忌と重なっていた。
13回忌の時には祖母の33回忌で、
祖母方の親戚を中心に法事を勤めさせて貰った。
7回忌は祖母27回忌、3回忌23回忌で、
単独での法要は一周忌は別としてはじめてなのだ。


ほんの身内だけで、心の籠もった静かな仏事…のつもりでいた。
その思いの割りには招待の多い法要になった気もしないではないが…。

19年の勤め

想い出を縷々書いたのは、
父の死の歳、43才で教員を辞めて満16年。
昨年末から年金に関していろいろな手紙が届くため時々当時を思い出していたのである。


年金をかけていた期間が足りませんよとか
待機者とか…
この手の手紙は、
教員は20年勤めて一人前であって
19年というのはなんとも中途半端だったのだ、
ということを今頃になって知らせてくる。