和泉式部と小野小町

和泉式部は宮廷サロンの大スターだった。小野小町は美貌で知れ亘っていた。
式部には母を越えるといわれた小式部の存在があった。
その小式部を失ったとき、式部は求道の人となる。
「小足にてたどり行くらん死出の旅、道しらずとてかへりこよかし」


片時も忘れられない子の幻影を追い求め、書写山に在った性空上人に歌を送り、苦を越える教え、を伝えて欲しいとすがり、
彼岸の中日には、女人禁制の叡山の麓で、僧侶によって山上に運ばれていく花に思いを託す。


その時、麓から山上へと届けられたのは「女郎花」。
名だけではあるが、まぎれもない女性だった。
「名にしおはば、五つのさはりあるものを 羨ましくも登る花かな」(『新千載和歌集』)。


求め求め、ようやくたどり着き、安心を得たのが、名高い伝承歌のこころである。


「先立ちて徒(あだ)にはかなき世を知れと、教えて帰る子は知識なりけり」
あの子はわたしの善知識だった、との覚醒。
それが回向(えこう)なのだろう。


苦の因でしかなかった子の死が、その時から「徒にはかなき世を知らせてくれる」出来事となって、起伏はあったのだろうけど、
子は、おのずから、おかげさまと手が合わさっていく存在となる。


末法近き世に、女人救済の先駆けの生き方を示した式部は、
後の世にも、当時治ることのない病を抱えた人々の中に共に生きる菩薩として登場する( 秋元松代著『和泉式部』)。


唱導の先達として喧伝され、語られた式部伝承の多さに、
柳田国男は『女性と民間伝承』の中で、清水・泉の湧く地で唱導していた女性宗教者の存在を説いた。
だが、柳田民俗学がどう説明しようと、式部は民衆に仏教の教えを伝えた菩薩の化身だったのである。


一方の小町は、美貌ゆえに、時宗謡曲で、「卒塔婆小町」「関寺小町」として取り上げられる。
どんなに美しいものもいつかは老いていく。
その、具体相を示す女性として、永遠に人々のこころに生き続ける存在に昇華した。


聖人登場前の二大唱導家と目され、庶民へ仏教の橋渡しをした二人の女性。

その代表である式部に、「明日ありと…」が、先ず仮託されて、世に登場したのだ。


このことの持つ意味の重さ。
願いの歴史の深さ。 
その歌が聖人の口から歌われたとされる、えにしの尊さ…を思う。