松波城址から出土した天神雛(びな)

                            
10日に一本の電話が入った。


昭和37年、松波城を発掘したとき、
枯山水・中世庭園のそばからお人形さんが出てきて、
関係者がそれを大事に保管している、というのである。


電話を下さった大先輩は、
私が去年の3月まで嘱託で勤めていた珠洲焼資料館にいるものとばかり思い、そこに電話を入れたという。


辞めたことをすごく残念がっておられたが、
時が流れれば、住む場所も変わる。


ただ、この電話のような話の時は、
その物について色んな角度から検討できる職場だったので、
便利といえば便利だった。


電話だけでは人形は想像もつかないが、
「昭和37年」がこころに残った。


松波駅は、松波城の麓に出来た。
そのため、松波城域のかなりの部分を削って線路が敷かれた。
その時は、そうでもなかったのだろうが、落ち着き、文化財保護が意識されだしてから、
山城のはずれを削って線路が延びたことを残念がる声が聞こえるようになった。
線路を跨いで城跡を結ぶ橋を歩いたこともある。
気動車に乗っている時は、
出来るだけ城域を走っていることを思わないようにしていたが、
それでも、時には城を意識したことがあった。
 

城山を切り開いてまで夢を運んだ能登線


人形が出土して間もない翌38年には、
飯田高校の陸上部員として、約10㌔離れた地で、大きな夢を運んでくるはずの盛り土の上を、1500メートルハードルで県4位だった先輩と連日走った。


うかつにも、と書いたが、盛り土の上を走ったところから思い出が始まる「のと線」と、その廃止に至るまでにの間に、思い出がありすぎて、まだ距離を置いて語ることが出来ない。


「人形」の方は、本日、先輩がお越しになり、拝見することができた。
陶製の天神雛なのだろう。


能登線が開通した頃に、再び地中から姿をあらわし、廃線となって間もなく、あらたな物語が語り出されようとする雛。


手のひらほどの大きさの雛を通し、
ひたむきだった頃の幻影を見た。