大桑斉さん(先生)葬儀、一周忌-問われているもの。
2003年3月8日大谷大学最終講義。
講義は聞かずに、受付係をしていた草野顕之氏にお祝いを渡して会場を後にしたはず。写真は同日発行の「大桑斉先生年譜・業績目録」と共に、後ほど「大桑斉先生を囲む会」から送ってきた。
葬儀に参加するにあたって、最終講義「民衆思想史ということ」を、読み直してみた。面白かった。そして、あるときまで同じような方向を向いていて、いろんな意味での大先輩だった大桑さんの歩みが、急に見えなくなった。その象徴が、次に載せる著書、ヘルマン・オームス的世界との関わり、そして「他者」という用語・概念である。
そのことも、この最終講義の中で、どうしてそういう関わりが生じてきたのか、誰が読んでも分かるように説明されていた。
奥能登にいて、絶えず通る、金沢においでる大桑さんを知っているつもりだったが、つもりでしか無く、自分は自分のことをやっていた。その辺りが「他者」なのだ。
おまえ何言ってるんだ…。全然違うじゃないか。
まあ、そんなところかな…。
どちらにしろ、対話の術はない。
遠くに向かっていた大桑さんと、どこかで話し合えるとしたら
どうして真宗地帯に華やかで盛大な祭りが多いんだ?
の分析・解釈だったのだろうが、これはここで止めておく。
それこそ、「他者」ばかりで、大桑先生以外に聞く耳を持つ者はいなそうだし。
ご葬儀
お参りしてきた。昨年も桜が散っている頃だった。大桑さんのお寺・善福寺近くの浅野川界隈には桜木が多い。明日ありと…。願わくば…。桜・桜・さくら
ご住職をお送りする葬儀の流れは、私たちの能登教区第10組とは、所々に違いがあった。
善福寺土蔵本堂。
仏教史の諸君と。前列左から-西山、田内、江口、藤島先生、名畑さん、塩谷。
大桑さんは田内の後ろに立っておいでる。
ここに名を書いた人々の中で、この世に在るのは田内と西山のみ。
江口も今年2月3日に還っていった。
2、3列目は、大桑さん以外、皆元気なはず。
この他にも、手元の書籍に部分執筆されいる論がかなりある。そして、賀状の文がいつも素晴らしかった。大桑学を時代順、内容別に整理したいのだが、どうなることだろう。
抜き刷りは、葬儀参加前にある程度まとめた。
「一茶」は、私なりのとらえ方で書きたいのだが…。この抜き刷りは別のルートから頂いている。
『とも同行の真宗文化』の大桑さん
ちゃんと最終講義の内容を分析する前、昨年6月に出した『とも同行の真宗文化』に書いた文。
大桑斉(一九三七~二〇二〇) 膨大な著書中、とも・門徒に寄り添った仏者・門徒像を描いた代表作。
『大地の仏者』(能登印刷 五十八年一月三十一日)、『論集仏教土着』編(執筆者二十二名 法藏館二〇〇三年三月)、『江戸 真宗門徒の生と死』(二〇一九年十二月、方丈堂出版)
日本宗教民俗学会(テーマ―「真宗と民俗」の再検討、於大谷大学、二〇〇六年六月十日)で、特別講演「真宗と民俗―思想史の視点から―」を行った。講演録より。
「真宗と民俗」という問題のいったい何が、現在問題なのかという疑問です。
江戸では真宗は亡霊という民俗(学の対象)に立ち向かいました。あるいは異界というものに立ち向かいました。でも近代ではどうなったのか。近代に民俗が消滅したということが言わず語らずに思われているようでございますけれど そうではなくて、近代に至って、民俗は国家儀礼に吸収されたと思います。
(中略)「真宗と民俗」という課題を立てて私が考えるならば、真宗は何に向き合っていったのか、それと真宗はどう関わったのかと、こういう問題として私は考えていくことになるだろうとの関心に立っています(『宗教民俗研究』第十七号二〇〇七年二十~二十一頁)。
大桑さんとは、真宗地帯に華やかな風流を伴う祭礼が多いのはなぜか?を、メールでやりとりし、参考文献・問題点を出しつつあるところで、大桑さんは『江戸 真宗門徒の生と死』(方丈堂出版)、『本願寺教如形成史論』(法藏館)出版の追い込みに入られ、中断。大桑さんの、門信徒の願い・非のさらに奥にある根源の「こころ」に思いを寄せ、それを思想史として普遍化し続けられた学びの姿勢は、大桑学統として受けつがなければならない。二〇二〇年四月十四日還浄。法名斉証院釋闡正、八十二才。
同誌415頁