15日、金沢のラッシュを避けるべく、ホテルを6時50分に出発した。
車のフロントがガシガシに凍っていて、タオルを暖めて貰い、氷を溶かす。
ほぼ1時間。津幡の御門付近で車を止め、朝ドラを見ようとカーナビを操作するが画面に移すことが出来なくて、音声を聞く。
7時50分のはずなのに、NHKは6時台らしきことを言う。
ホテルの時計より1時間腕時計が遅れていて早め、車の時刻も1時間遅れていたので、行在所跡で調整するため、ガイドブックを開いたところだった。
家に何時か電話を入れる。7時前だという。
ようやく合点がいった。ホテルの時計が1時間早かったのだ。
気分を取り直して、いつも通り過ぎてた行在所跡にたたずむ。
皇帝諱守成号佐渡院、聖代建暦辛未歳子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもって勅免、此時聖人右のごとく、禿字を書きて奏聞し給うに、陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す。勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり。(『真宗聖典』東本願寺出版部版・大谷派、732頁)
聖人を勅免なさり、(愚)禿親鸞の名乗りを知って、叡感を下しなさった重要な方なのに、
御伝鈔には、「皇帝諱守成号佐渡院(皇帝、諱〈いみな〉守成〈もりなり〉佐渡の院と号す)」 としか出てこないので、気にせず、時々御門の碑を見ていたのに通り過ぎていたのだった。
その方の行在所が、どうしてこんなところに?
説明板には
なからへて
たとへは末に かへるとも
うきはこの世の 都なりけり
当時、この地域一帯(宇ノ気、狩鹿野、指江、能瀬)を合わせて、
「うき(宇気)」と言っていることから、当時を偲んで詠んだ歌で
あろうといわれています。
1221(承久3)年、承久の乱に敗れた順徳上
皇が佐渡へ流される途中、大しけに遭い、やむなく王崎(現在の
かほく市大崎)の浜に上陸されて、御門に行在所(あんざいしょ
=仮の御所)を定め、同年12月から1223年の3月まで、足
掛け3年ご滞在されたと伝えられています。こうして村は御門
と呼ばれるようになり、「御門屋敷」と呼ばれた屋敷跡がこの地
であります。
英田塾「英田の郷」より引用 順徳上皇御門屋敷碑建立委員会
とある。
このあとも、早く動き出したので、あちこち巡ることになる。