大坂平野、大念仏寺ー融通念仏宗総本山ー

2日(月)大坂へ行ってきた。

四天王寺

新大阪から車で平野へ向かう途中、四天王寺などがあったのだが、雨模様でカメラはバッグにしまってあり、走っている車の窓から手を合わせた。
ついこの前、お彼岸の中日の23日(土)には、
観想念仏と、称名念仏の違いをお話しし、
観経日想観のもっとも具体的な例として、極楽の東門と言われた(言われる)四天王寺の話をしたところだった。
まさか、四天王寺のすぐ側を、10日も経たずに通ることになろうとは…、義兄が車で迎えに来てくれたおかげである。

極楽浄土の
東門は
難波の海にぞ
対(むか)へたる
転法輪所の西門に
念仏する人
参れとて
梁塵秘抄』巻第二 法文歌(極楽歌)
岩波古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』P375

親鸞聖人和讃

※後ほど

融通念仏宗総本山 大念仏寺

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1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
(大念仏寺HP)

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良忍(りょうにん、延久5年1月1日(1073年2月10日)? - 天承2年2月1日(1132年2月19日))は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。
尾張国知多郡の領主の秦道武(はた の みちたけ)の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年(1072年)説もある。
比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。22歳から23歳のころ京都大原に隠棲して念仏三昧の一方で、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させた。
1117年(永久5年)阿弥陀仏の示現を受け、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという立場から融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれると説き、結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進を行った。四天王寺に参籠した時に見た霊夢により、摂津国住吉郡平野庄(現大阪市平野区)の領主の坂上広野の邸宅地に開いた修楽寺が、その後の融通念仏の総本山の大念仏寺の前身である。
1773年(安永2年)聖応大師の謚号を賜った。
(ウキペディア)より

一茶句碑

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はる風や
順禮ともか
ねり供養
 一茶(花押)

一茶は法名

涼しやな
弥陀成仏の
この方は

がある。
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