「佐野春菴翁碑」の土台石ー亀石ー亀がいた!それに、黒本稼堂まで…。

経緯はこうだ。
飯田に、佐野春菴(文政11年・1828~明治31年・1898)という名儒医がおいでた。
昭和6年には氏の徳を顕彰する碑が春日神社前庭に建てられた。
ほとんどの人は知らないのだが、当寺の鐘楼横に「故い佐助」とある力士碑の名付け親が春菴先生で、この力士・浅田鉄次郎氏が明治19年(1886)飯田消防団組頭となって実質的な初代であったため、飯田消防団のまといが「い(かながしら)」となった。消防まといも春菴先生が名付け親ということになる。
春菴先生から3代、佐野家を継がれた純氏は、国立山中病院長、国立金沢病院長、同名誉院長をなどを歴任され、平成6年7月4日御逝去なされた。
金沢の笠舞にお住みだったので金沢小立野仰西寺さん本堂をお借りして、同6日通夜、7日私が導師となって葬儀を営ませていただいた。
弟の武さんは東京帝大を出られ、昭和19年2月23日、マリアナ諸島テニアン島で戦死されている。27歳、陸軍中尉だった。

この武氏と同じ年の6月11日にトラック島で戦死なさった泉靖夫氏との合同葬儀が県立飯田中学校講堂で執行され、そのこともあってか、靖夫氏の弟、故・泉季夫氏が佐野家に関する資料をほぼ網羅した「佐野春菴先生の流れは永遠なり」という論を『珠洲路ものがたり』60号(平成11年刊)に発表された。

戦死なさった武氏には2人のご子息がおいでになり、長男・譲氏は国立金沢大学医学部教授などを歴任され、弟の秀一氏は経済界で知る人ぞ知る活躍をなさっておられた。
そのお二方とそれぞれのお子さん、お孫さんたち30数名が、この連休に、佐野家のお墓のある当寺にお寄りになったのである。
お孫さんたちからは、「佐野春菴」は6代前の先祖にあたる。お子さん方も、ほとんど初めての地なのだろう。
「佐野春菴」碑を見てこられ、当寺では「故い佐助」の由来を知り、「佐野氏」とある先祖のお墓参りをなさった。

「佐野春菴翁碑」

そこで、わたしもジックリ「佐野春菴」碑を見てこようと、300メートルほど離れたところにある碑を見に行った。
しばらくは気がつかなかったのだが、最近あちこちで石碑や亀石を見ている為なのだろう。
碑の台座が、亀の形をしていることに気づいた。
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向かって左に頭・首、甲羅尾部分下に尻尾、足もこちらと向こう側に二本ずつ付けられており、おおいに凝った亀姿になっている。
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斜め前から。
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後ろから。
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左手の上の方にかすかに見える白い石は、万葉歌碑「珠洲能宇美爾(すずのうみに)…」
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碑文
佐野春菴氏については『珠洲郡誌』に載っており、その文は、明治壬寅 東海道人・比企泰撰並書の「佐野氏之先、出自俵藤太秀郷五世之孫佐野太郎基綱…」から始まる漢文である。
てっきりこの文が碑文に取られているのだと思っていた。今度、あらためて碑を見ると、
「明治初年能之飯田…昭和六年在辛未夏五月 男爵前田直行篆額 稼堂黒本植撰文并書」とあって、違っている。
この文は、泉氏の資料にも載っておらず、どこにも紹介されていない。
昭和6年、86年前の碑文だが、彫り・石材がしっかりしており、読み取ることが出来そうである。

ここでは、「佐野春菴先生の流れは永遠なり」に写真版で載る「佐野春菴翁建碑趣意書」を引用・紹介する。

春菴佐野先生ハ郷土ノ生メル近代ノ碩学ナリ、弱冠ニシデ笈ヲ京師二負ヒ、家業ノ医学ヲ修メ、兼テ儒道ニ精進スルユト多年、博ク汗牛ノ群書ニ渉リ、遍ク充棟ノ諸子ニ通ジ、其ノ学殖識見ハ共ニ天下ノ士タルニ恥ヂズト雖、名利ノ念ナク、又敢テ開建ヲ求メズ超越然トシテ世外ニ悠々タルヲ欲シ学就リ帰郷セラルルヤ、儒医トシテ一生ヲ郷土ニ埋メ、本業ノ旁ラ私塾ヲ開キテ子弟ノ育養ニ努メラル、之ヲ以テ朝ニ道ヲ聴キ夕ニ教ヲ請フモノ四方ヲリ雲集シ、ソノ一代ヲ通ジ及門ノ士数百ヲ以テ数フルノ盛ヲ為シ、学徳一世ヲ風靡スルノ概アリキ
若夫レ先生易簀以来茲ニ三十有三年、歳月徒ニレテ先生ノ偉磧漸ク湮滅センコトヲ�囈ル、
況ンヤソノ謦咳ニ接セルモノ亦次第ニ泯亡シ去ラントス、今ニシテ其学徳ヲ顕彰シ以テ不朽ニ伝フルノ途ヲ講ゼズンバ或ハ懼ル地方先賢ヲ遇スルノ道ニ背センコトヲ、茲ニ於テ余等自ラ揣ラズ進ンデ春菴先生頌徳碑建設ヲ提唱シ、弘ク江湖諸君ノ貸同ヲ得ントス、翼クハ先生ヲ識ルト、否卜二不拘此ノ挙ヲ翼賛セラレ速二ソノ完成ヲ期セシメラレンコトヲ 至嘱
(以下、規定、発起人等略)昭和五年九月 佐野春菴翁建碑会



佐野春菴先生命名「い」佐助碑

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「故七五三守」碑は、鍛冶町助八家の次郎の碑で、天保年間(一八三〇~四四)に建てられという。助八の次郎は、顔役で力士。一時期酒屋を営んだという。碑は高さ一三二㌢、最大幅一〇〇㌢、厚さ三三㌢。読み「しめのもり」
「故い佐助」碑は、浅田鉄次郎(彦治・デコヂ)さんの碑。彦治さんは、明治19年(1886)、飯田二代目消防組頭となり、44年11月16日まで組頭を勤めた。大正初年に若山町中田のふかだから石を引っ張ってきて建てた碑で、医師・佐野春菴先生が「い(仮名がしら)佐助」と名付けた。
 なお、彦治さんの先代、あるいは先々代が榎本武揚軍に従って函館五稜郭でも行動を共にしたと伝わり、函館の港公園にある碑に名が記されているというが未調査(【参考】「私たちの町」昭和23年 謄写版) (N=西山)

珠洲散策のーと』(西山郷史編著、平成20年3月刊)

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「佐野春菴先生の流れは永遠なり」(泉季夫著)

珠洲路物語』(平成11年60号)の目次を紹介する。

一、家系図 佐野家家系図

二種類、佐野春菴似顔絵

二、佐野春菴関係資料

佐野春菴翁建碑趣意書
珠洲郡誌 佐野氏所蔵 明治壬寅八月之吉 東海道人 比企泰撰並書
『ふるさとの人物』昭和43年12月発行
佐野春菴ーらい落な儒学者ー 葛原吉久
遺墨2点 佐野家所有 伊川家所有
珠洲市史』
佐野家墓(西勝寺墓地)

三、生垣聞蔵

柳田農学校の創設者 清水隆久
若者はいつでも日本の未来ー農高生みの親・生垣聞蔵翁ー
医療と農村問題をも研究-輪島や珠洲にまで往診ー
『石川県農村文化関係史料』昭和59年

四、伊川喜久蔵

伊川家系図
賞状 東京帝大医学部単位履修 慶応大学医学博士、慶応義塾医学部助手
年表

五 佐野純及び弟・武

『私の人生抄 竹の巻』北國出版社 昭和58年
四高、金沢医科大卒、穴水病院長、国立山中病院長、国立金沢病院長、国立金沢病院名誉院長

「私の幼年時代

河ヶ谷は、春になると毎年、森町の子供みんなで竹を買いに行った所である。トンボバタの柱にすると長い竹を買ってみんなで担いで帰った。
トンボバタは、近ごろは新聞にも伴旗と書いて出るようになった。珍しい春の祭りである。『内浦町史』には、昭和三年ごろからの習俗と書いてあるが、それは誤りである。私の子どものころ、大正の初めにも大変盛んであった。

佐野純氏を偲ぶ 大幸英吉 (「医療放談」石川医報第1088号、平成6年)
佐野武(弟)

大正六年十一月二十五日飯田町で生まれる.
昭和十九年二月二十三日 マリアナ諸島テニアン島で戦死する。(陸軍中尉従七位勲六等功五級)

珠洲市戦没勇士録』

大正十五年父死亡し翌年一家あげて金沢市に移り、新竪町小学校を卒業し金沢二中、第四高等学校、東京帝大を卒業し朝鮮総督府清津水産試験場に勤務した。昭和十六年三月一日、現役兵として輜重兵第五二連隊に入営し、七月一日兵科幹部候補生となり、十七年三月三〇日見習士官を命ぜられ、十一月三〇日現役満期除隊、十二月一日予備役編入引き続き臨時召集を受けた。十九日宇品港出帆、二月二三日マリアナ群島テニアン島へ上陸作戦中に敵犠の機銃掃射をうけ上陸用舟艇にて無念の戦死を遂げた。

六、伊川喜久蔵夫人麟奥様に聞く

付記に
平成6年7月4日になくなられた佐野純先生の奥様の住んで居られる金沢市の自宅には、西山先生が毎月命日のお参りに出向いていられると聞いている。
西勝寺墓地に建つ佐野家の墓には毎年旧盆に穴水方面の人がかかさずお参りして帰られるそうです。

平成11年5月執筆。
18年前。
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佐野家墓石。

さらなる展開

佐野春菴と言っても分からない人が多くなり、、まして台石が亀などということは、誰も気づいていなかった。
私が見に行ったのは7日の朝2回で、その日に限って短い時間に市会議員、元珠洲市商工会議所会長、元市活性化課長、宮司さんにまで出会った。もちろん、誰も気づいていなかった。
それで、記憶にあった泉さんの文などを読んでいったのだが、そこにお2人の葬儀が飯田中学校講堂で行われた、とある文で別のことを思いだした。
今はなき北川写真館・遺物となった写真アルバムに、学校の講堂で葬儀を営んでいる写真があったはずだ…。
それを調べていたら、なんと
佐野春菴翁碑の写真があるではないか…。
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おそらく、昭和6年建碑から、ほど遠くない時の写真だろう。
亀もくっきりしている。
宮司さんが能登沖地震でもびくともしなかったとおっしゃておられたが、見た感じでは、この写真も今もほとんど変わりがなさそうだ。
写真の人々は同世代に見える。
この中に佐野家の関係者もおいでるのだろうか…。
※後ほど佐野譲氏からいただいたお手紙によれば、佐野家関係の方はいないようだ、とのこと。
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中学校講堂で執行中の、戦没者葬儀。

さらに更にの展開ー黒本稼堂(植)ー

碑文が黒本稼堂である。
稼堂は、京都北野天満宮一の鳥居の言われ碑文の文・書を書いており、ブログ「京都史蹟散策103 北野会之碑と新建石鳥居碑」に次のように紹介されている。

稼堂は、加賀(石川県)出身で、本名は植。稼堂・雲庵などと号する。漢学者。
五高教授となり、在職中に夏目漱石と交遊があり、小説「坊ちゃん」の山嵐のモデルとなった人物。旧蔵書は、金沢市立図書館に約2,700点、7,600冊が稼堂文庫としてある。

坊ちゃんのモデルは松山時代の同僚とされているが、稼堂ー山嵐のモデル説もあるのかも知れないと思いつつ調べていると、このような文に出会った。

ふるさと寺子屋
夏目漱石二百十日」の世界」 (No155)
講師/熊本日日新聞社編集委員 井上智重 氏
「坊ちゃん」は小説の舞台が松山であることから、松山の物語とされていますが、内容は五高の人間関係だと思います。山嵐が黒本稼堂、うらなりが浅井栄煕、そして坊ちゃんは漱石かというと、これはそうではなくて漱石は赤シャツです。漱石は自分の中にある西洋文明のいやなところもちゃんと認識し受け止めている、そういう偉さが漱石にはありました。そして、客観的に自分を見つめるというのが近代的な文学の手法です。そういう意味で言えば、「草枕」と「二百十日」は別々の物語ではなく、実は熊本を舞台にしたひとつの物語であるということもいえると思います。

一説に「山嵐」のモデルともされている稼堂、ということになるだろう。

珠洲飯田に稼堂の碑文があることは、稼堂研究者がいるとして、知っているのだろうか。