石垣の板碑、後日譚

3月25日の記事に
石垣の板碑と書いた。

今日、確かめることが出来た。
石垣があったかも知れないと思われる場所は、コンクリートで固められており、墓地内の石垣で作った台に板碑があった。
墓地を整備し直し直すことによって、場所が移動することはよくある。その類かと思ったのだが、台そのものが古い。
木が伸びていて写真ではわかりにくいが、
間違いなく同じ場所である。
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その上部の板碑
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これもそうかも知れない
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そして、バーン
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昭和47年3月刊行の『七尾市史 資料編 第五巻』には、
3基が(石垣に利用)と書かれている。
写真は一切ないので、3月35日掲載分とこれだけが写真なのだが
石像観音菩薩像の台座部に利用されていたのだ。
石垣とあれば、どうしても外側の石積みを考えてしまう。
が、ここ(如意輪観音石像台座)に利用されている。
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47年版『市史』には、もう一基(墓碑に利用)とあるのが、この板碑だと思う。

ところで、平成16年刊の『新修七尾市史12 造形文化編』には、
墓地に3基、庭に2基の金剛界大日如来種字板碑があるとだけ記されていて、
(石垣)にあることも記されていない。
段々、わからなくなっていくのだろう。

前に撮った写真に比べ、石積みに隙間が見られ、ずいぶん風化した印象を受けるが、10年前の能登沖地震で出来たすきまだろう。あの時は、このあたりもずいぶん揺れた。

写真が出てきたので、ついつい追いかけてみたが、

話が伝わらないことや、思い込み、出がけにモタモタすることが多くなり、
もうこの分野はやめて、

しばらく、静かに整理整頓の日々をすごそう、と思う。