五来重先生-①

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歎異抄」目次
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仏教文学の窓・執筆者


あまり知られていないようだが、五来重(ごらいしげる)先生の著に『歎異抄』がある。
角川書店刊・五来重編『鑑賞日本古典文学 第20巻 仏教文学』所収のもので、仏教民俗学を樹立し、庶民仏教研究の第一人者だけに、極めて示唆に富み、例えば悪人正機の悪人を、多くの研究書はこね回して、結局よくわからない悪人像を描き出すのだが、五来歎異抄の分析は、外連味(けれんみ)がない。

この本は絶版で、歎異抄部分が『鑑賞歎異抄』として1991年に東方出版から刊行されているものの同様で、五来重著作の集大成『五来重著作集』全12巻・別巻1(法藏館)に含まれているかどうかを見た。
著作集のタイトルを見ただけでは親鸞聖人関係の論・本が載っているようには思えないのだが、別巻の索引、著作目録がしっかりしていて、第4巻『寺社縁起と伝承文化』に『歎異抄』の解説だけが載っている ことがわかった。
『仏教文学』歎異抄は21ページ~138ページ。
解説文はそのうちの5ページである。



一部をここに採録する。

五来重歎異抄

(『鑑賞日本古典文学』第20巻仏教文学、角川書店、昭和52年刊)

解説(部分)

 『歎異抄』撰述の動機は、しばしば序と法語にかたられているように.親鷺没後の異義を歎き、自分が直接きいた先師の真意を書きのこしたかったからである。
その時期も『慕帰絵詞』(第三巻)に、
  正応元年(一本延慶元年)冬の比、常陸国河和田唯円房と号せし法侶上洛しけるとぎ、対面して日来不審の法文にをいて、善.悪二業を決し、今度あまたの問題をあげて、自他数遍の談にをよびけり。かの唯円大徳は鸞聖人の面授なり。鴻才弁舌の名誉ありしかば、これに対してもますます当流の気味を添いけるとぞ
とある(と欠か)ころに、本願寺宗主覚如に語ったところを記したものとするのが妥当であろう。
それは覚如本願寺教団を統一するために、親鸞の真意を面授の弟子から聞く必要があったからである。覚如は十八歳の時、弘安十年十一月十九日に、親鸞の孫、東山の如信からも「他力摂生ノ信証」を口伝され、血脈を相承している。
 また延慶三年、二十一歳のとぎは関東に赴いて面授の弟子たちに会い、如信ばかりでなく、慈信房善鷺にも会った。このようにして曾祖父親鸞の法語から浄土真宗教理を構成しようとした。(『仏教文学』26ページ、『五来重選集』第四巻ー寺社縁起と伝承文化ー、177ページ)
「慕帰絵詞」と歎異抄の関係に触れているのは少ないのでは…。

【善人】

この一条の文では「自力作善の人」のことである。
ところが現代の『歎異抄』讃美者は.本質は悪人であるのに善人を装う人、偽善者というふうに解する。
これは文脈を全部読まないで、独断する入に多い。現代的異安心である。
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のあとに「自力作善の人は、ひとへに他力を頼む心か(欠)けたるあひだ、弥陀の本願にあらず」とあって、親鸞が善人は「自力作善の人」を指したことはあきらかである。
そのような善人が、他の仏菩薩の救済にあずかることは否定しない。
しかし弥陀の救済にあずかろうとすれば「自力のこころをひるがへして、他力を頼む」ことが必要だといっている。(『仏教文学』42ページ、)

善人と悪人

この条(第3条)は「悪人正機」を説いたものとして、『歎異抄』のなかでもっとも有名である。しかしそれだけにいろいろの解釈がされている。
そのもとは善人と悪人の解釈の相違によるものといってよい。
これを親鷲の意図とは関係なしに、「我かく思う」という独断が多いが、これは親鸞を材料にして自分の思想をのべたものといえよう。この場合は自分の思想や哲学の弱点を、親鸞の名で補うといったような使い方もなされる。
ある作家の文学や思想家の忠想は、全体の文脈に沿って忠実に把握した上で、自分の思想や文学表現にその由を断って引用することは可能だとおもう。しかし自分の好ぎな箇所だけを、好きな意味につかうことは、原作への冒涜(ぼうとく)といわなければならない。
その意味で「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、それだけとりあげると、善人蔑如、悪人讃美という反社会的な破壊的思想につながってゆく。そのようなラジカリズムにこの言葉は使われすぎた。こ
れは親鸞の本当の意志でないことは、親鸞の消息をあつめた『末灯鈔』や『御消息集』に善乗坊らの造悪無碍の誡(いまし)めとして語っている。
すなわち「浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸无慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしとおほせられ候なるこそ、かへすかへすもあるべくも候はず」とある。
またもう一つは悪人というのは社会底辺の人間で、居沽(とこ)の下類」すなわち殺生するものや商人のことだとする。
あるいは「群萌」とか「群生」とかいう大衆こそ「悪人」だという説もある。
そのような大衆を味方とするジェスチュァは、大衆にすぐ見破られてしまう。
また「人間とは、悪人の別名だ」というような立言をする者もある。
一種の擬悪主義なのだが、これは「宗教の立場からすれば」という限定がなければ、酔っ払いの放言でしかなくなる。
しかし親鸞がここで言っているのは、原罪とか根本悪という意味の悪人でないことは勿論である。
ここで善人というのは、四二ページにのべたように、「自力作善の人」なのであるから、ここの文脈からいえぱ「自力作善をしない人」、あるいは「自力作善ができないと絶望して、自分は悪人だと自覚した人」ということになり、親鸞はまさにこの意味の悪人にあたる。
そのような自覚をして弥陀の本願だけにすがる悪人こそ、他力往生の正機なのである。
(『仏教文学』43、44ページ)


私は静岡大学で卒論に「親鸞和讃の文学性」(指導・南信一教官)を書き、教師資格(住職)を取るため大谷大学修士課程を目指した。
受験の場で分かったのだが、大谷大学修士課程の枠組みは「仏教文化」といい、試験問題の国文系が「説話文学の流れについて述べよ(?)」、隣に「庶民仏教の流れについて述べよ?」とあった。
どちらかというと民衆宗教については、いろんな本を読んでいたので、せっせせっせと書いて提出し、口頭試験を受けた。
数名の試問官に答えていくうち、私が書いた論は、国史の問題だということが分かった。
縁は異なもので、そのまま五来重先生に学ぶことになった。


学生研究室は国史・日本仏教史共有でそれぞれに佐々木孝正、大桑斉助手がおいでになり、特研生で中川泰伸さん、のち豊島修さん、佐々木令信さんがおいでた。
これは違いが分からず、国史・仏教史が補完し合っているものと思っていた。
研究室にはあらゆる文献が揃っていて、分からないことは佐々木さん、大桑さん(のち大桑先生)その他に質問できるので、ある時期まで入り浸っていた。
この研究室とは別に国史五来重主任教授、柏原祐泉、堅田修、日本仏教史に藤島達郎主任教授、北西弘、名畑崇先生方がおいでた。
ちなみに私の父が国史を出ており、その時の助手が藤島先生だった。

このようなことを書いたのは、安居の関係からである。
書棚にある安居テキストに北西、堅田、名畑、柏原、木場明志先生分がある。木場氏は後輩で、国史の教授になったはずだ。

そこで???…………、五来先生は?

国史に於いて真宗との関係は、上記の方々の他に佐々木さんが真宗民俗学を一手に引き受けておいでたのである。
若くして還帰され、その後を木場君が継いでいたのに、彼も体調を崩している。


かすかな記憶だが、住職になるための勉強で、五来先生に尋ねたことがあった。
その時、先生は柏原先生に聞きなさいと紹介してくださった(ような…)。
新しい学問体系の構築に忙しく、真宗分野まで関わっておれなかったようだ、と考えたいところだが、
その時の印象は、真宗に関してもどれだけでも答えられるのだが、敢えて役割分担をなさっておいでる、と感じた。
先生の著書目録を見ると、柏原先生の博士論文「日本近世近代仏教史の研究」の審査要旨も書いておられる。


小川一乗先生の安居テキストに、網野さんの『日本の歴史を読みなおす』を引用され、社会的に蔑称されている悪人(悪党、海賊など)ではなく、仏法に背く「悪人」である、と結論づけられている(『顕浄土真実実証文類』「悪人とは」p95~p103)。
そこで五来先生はどう書いておいでるだろうと見直したのが、五来重真宗学を訪ねはじめるきっかけである。
「仏法に背く」よりはっきりと「自力作善」が出来ない、自力作善を知らない存在と位置づけておいでる。
これは、真宗僧も用いがちな「追善」とも関わる身近な問題提起語なのである。
それが、今からほぼ40年前にすでに書籍になっている。あまり勉強しているわけではないが、五来重の「歎異抄」によると、の文に出会ったことがない。