「あう」「値(あ)う」「遇(あ)う」についてー2010年7月、能登教区御遠忌テーマーに寄せて再録

以前のブログ記事あう、値う、遇うー真宗の用語ー【執筆】の写真(PDF?)が読みづらい、とのコメントが入ったので、PDFではなく、文そのものを以下に記す。
当然、当時の原稿、下書きがあるはずなのに残っていない。???
スキャナーで取って変換。次の文である。

 「あう」「値う」「遇う」について

                    能登教区第十組西勝寺 西山郷史
 親鷺聖人は、私たちが教えに出あえるように、わかりやすい「和讃(わさん)」をお作りになるなど、ご苦労なされました。
 しかも、「愚昧(ぐまい)の今案(こんあん)をかまえず」(『御伝鈔(ごでんしよう)』)、すなわち、愚(おろ)かなわたし(=聖人)のはからいを一切交(まじ)えず、ただ七高僧(しちこうそう)・聖徳太子のお導きのままに、弥陀にたすけ申さるべく信心の道一筋・お念仏のご生涯を送られました。
 その聖人の七百五十回御遠忌をお迎えするにあたり、教区から、「ほとけさまに遇(あ)いにきたいのち、今ともに生きよう」のテーマが届いております.
 「ほとけさま」は、いうまでもなく阿弥陀さま・弥陀如来(みだにょらい)ですし、「如来、われとなりて我を救い給う」[曽我量深師]「はたらき」としての阿弥陀さまでなければなりません。
 「地獄は一定(いちじよう)すみか」(『歎異抄(たんにしょう)』)に向かうしかない私たちに往生(おうじょう)安楽国(あんらくこく)の大道を示され、空しく過ぎることがないように呼びかけ続けておいでになるのが、「ほとけさま」です。
 「いのち」の方は、寿(いのち)・命(いのち)、生命(いのち)、生死を越えてある「いのち」、あるいは「今、いのちがあなたを生きている」(宗派テーマ)「いのち」など、人の数だけ「いのち」があるようですが、「遇(あ)いにきたいのち」となれば、この世に「遇う」目的を持って生まれてきた「いのち」ということになります。

 親鷺聖人は、御著書の中で「あう・もうあう[参りあうの意]」をほぼ一四〇カ所で用いておられます(『親鷺聖人著作用語索引』)。
 そのうちの六割以上がひらかなで、「値」・「遇」がそれぞれ二割近く出てまいります。
 ところで、現代では、さまざまな意味の「あう(値・遇・逢・遭など)」を「会う」で表記しており、「遇う」は、真宗関孫以外ではあまり見かけないことばです。しかも、私たちにとって最も身近な『正信偈(しょうしんげ)』には、「一生造悪(ぞうあく)値(ち)弘誓(ぐぜい)」と、「弘誓(ぐぜい)に値(あ)えば」が出てまいりますが、そこで用いられているのは、「遇う」ではなくて「値う」なのです。
 にもかかわらず、あえて「遇う」なのは、親鷺聖人が「遇(たまたま)行信(ぎようしん)を獲(え)ば遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ」(『教行信証(きょうっぎょうしんしよう)』総序(そうじょ)とあらわしておいでるように、あえるはずがない願いに、あわせていただいた感動・驚き・よろこびを、たまたま「遇(あ)う」と示しておいでになるのです。
 受け難い人身(にんじん)を受け、この人間界で、私たちは、多くの出会いと別れを味わっております。
 人として生を受けた、その事実の重みに頭が下がれば下がるほど、本当の呼びかけに出あいたいとの希求・南無が目覚(めざ)めてまいります。その「南無」が、はたらきかけ通しの本願の光明=阿弥陀仏に包まれ、「南無阿弥陀仏」の念仏の声となる。その「であい」が、「遇う」ひと言に籠(こ)められているのでした。もったいないことです。                                      (二〇一〇年七月)