奥州藤原氏館跡で発掘の塼仏ー平安末期の「珠洲焼」ー

北陸中日新聞朝刊に興味深い記事が載っていた。
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1992(平成4)年発掘の塼仏が、あらためて珠洲焼であったことがわかった、という記事である。
発掘場所は、平泉以前の豊田館跡で、珠洲焼誕生以前の館跡なので、
後に、奥州藤原一族が先祖発祥の地に祠を建てて祀ったのではないか、としている。


塼(センは土偏に専)仏のお顔が見えないので、ご尊顔を拝したい。
記事には、同じ型で作った塼仏伝世品は、七尾市能登島たつの市でも見つかっていると書いている。


珠洲焼資料館が出来たのは平成元年で、その時、資料館から『珠洲の名陶』を刊行している。
そこに、それらの写真が掲載されているので、
そこから尊顔を知ることのできる2点の写真、及び解説を引用する。
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七尾市能登島町野崎光顕寺伝世
現高二二・0?、現幅一四・九?、厚四・三?
一二世紀(平安末期) 光顕寺
蓮弁を彫出した台座上に坐した、光背を負う如来形の上半身と、拱手する神像風の下半身を厚肉彫に表現した?仏の残欠。二枚重ねの陶板に、面貌を中心とする部分と肩以下に分けて起こした型作り部材を押しつけ、はめこむ製法をとる。胎土は、鼠色の素地に淡灰褐色の鉱物粒と、鉄分が凝縮したとみられる黒いシミ状の結晶物が多く挟在する。
 本塼仏は、同笵の完形品が兵庫県揖保郡新宮町段之上白山神社の伝世品に認められる。それによれば、縦二五・三?、幅三七・九?、厚さ三・八?の陶板に、左から地蔵菩薩大日如来阿弥陀(?)如来の三坐像が彫出されている。
 同笵の塼仏片は、播磨中部の揖保川中流域の六?圏内におさまる九箇所で一五体が集中的に出土しており、村堂、村社の伝世、あるいは豪族居館跡から出土する状況は、前記珠洲地域の陶製仏神像と類似しており、中世社会における使用階層と使用方法に共通の宗教基盤をうかがうことができる。
 義則敏彦氏の教示によれば、『餓飢草紙』「疾行餓鬼」の場面で礫積みの中世
墳墓上に供養碑として三尊仏を立てた描写がみられ、珠洲窯産の如来形立像の脚部から胎内に一孔を穿ったもの(※鳥屋尾神社伝世本地仏)が存するのが注意される。
なお、一連の塼仏の胎土は、肉眼観察でも同一の特徴をそなえているが、胎土分析では珠洲窯産との報告(三辻利一氏)を受けており、確定的とすれば、異なる陶器分業圏とみてきた、能登(北束日本海域)と播磨中部(瀬戸内海域)の地域間相互の物的人的交渉を具体的に物語る新出資料といえる.
〔文献〕桜井甚一「珠洲市の歴史考古資料(仏像類V」『珠洲市史』二(一九七八年)

新聞で紹介されているのは大日如来だし、こちらは神像形式の像
違うじゃないか…というところなのだが、
次の写真を見れば同笵であることが分かる。
三尊の本尊と脇侍なのだ。
珠洲の名陶』p65
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能登島出土品と同笵の塼仏
兵庫県新宮町段之上白山神社伝世)



新聞の塼仏は、三尊の中央、大日如来である。
この三尊仏は、どのような性格のものであろうか?

野崎の像は、手を拱手とする神像形式で、本地仏を有する。
向かって左の地蔵菩薩が本地なら、気多神となり
中央の智拳印大日如来が本地なら、神明・伊勢神となる。
気多神は、伊勢神と同体であることは『能登名跡志』以降の文献にも多く出ており、
いずれにしろ気多信仰圏を想定しうるが、
拱手は、元の仏像の印相に粘土を覆い、その上で焼いているように見える。
元は、薬師仏だったのではないだろうか。
野崎は、古く東方瑠璃光浄土を意識した薬師の里であり、
大日、薬師、地蔵の三尊仏が祀られていたとしても不思議ではない。
むしろ、末法以前の像法期の能登は、この三尊が中心だったと言っても過言ではない。


よく写真を見ると、この三つの塼仏の叩き目が、それぞれに違っている。


技法、本地との関係など、
今日の新聞記事とは別に、深くから問題を提起しておられる尊像たち
といえよう。


○指定名称:白山神社の塼仏(はくさんじんじゃのせんぶつ)

市指定・考古資料
新宮町段之上(だんのうえ)の白山神社の祠(ほこら)に納められていた長方形の塼仏で、時期は鎌倉時代と考えられる。
塼仏は仏像を彫った木型に粘土を押して造ったもので、本例は完形である。
同じ木型から造られた塼仏は、西播磨に21体、石川県でも1体発見され、鎌倉時代の播磨と北陸の交流を示す貴重な品といえる。兵庫県たつの市新宮町宮内16

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