今年初めての講義。「フードピア金沢」の一思い出。

2月15日、講義に白山市へ行ってきた。
対象は、企業の方で、
何となく、年配の役員とか運営委員の方々に話すものだと思っていた。
平野修氏が何日も前から、聴衆の方々を分析し、その方々に合う話しに徹しられた話を聞き、
そうするように、努めてはいたのだが…
年配の(役員、運営委員対象)から抜け出なかった。
講義内容は「能登の民俗」である。
それも、年配の方々と結びついた。
が、より広い年齢層も考え、資料は、レジメ3枚(能登)と2枚(年中行事)、昨年新聞に載せた記事プリント表裏2枚を用意した。


皆若い。
皆さん若いですね…!から話し始め

休憩入れずに2時間。
終わってから、気づいたのは
職員の方々の研修だったということ…。
若いはずだ。
能登方面に出かける機会が増えることもあって、
職員たちのスタッフ(それが運営委員の方々で勝手に役員と思っていた)が「能登」を学ぼうと
私を指名したという流れだったらしい。


私が、そういう場に相応しかったのかどうかは、さておき
自ら、研修しようと計画し、講師も決めていく姿勢が素晴らしい。
いい企業なのだな、と白山市行町の会場を後にし、
職員ではないのだが、講義の場に来ていただいた山内さんと
松任で、素晴らしい昼食をいただいた。

フードピア金沢

帰って夕刊を見ると、この日、フードピア金沢の食談が行われていたことを知った。
思い出がある。
あれから、ほぼ30年。

昨日の講義とお食事が地についていて、
身にしみる豊かな時を過ごさせていただくことができたと、感慨に耽りながら、こたつに潜り込みつつ、ほぼ30年前に思いを馳せた。


フードピアはホームページを見ると、1985(昭和60年)に始まったと紹介されている。
その前に、準備期間が一・二年あったはずだ。
第1回の食談では、県職員で文化人類学民族学)専攻の向井英明君に誘われ
彼とつきあいのあった山口昌男(当時東京外語大)と前田愛(当時立教大)氏の食談に混じった。
「知」という言葉が盛んに用いられ頃で、トリックスターとかの言葉が用いられていた。向井君はその分野のホープだった。私は、その時38歳、飯田高校の教員だった。
食談の宿は「つる幸」だったはずだ。

翌年の『フードピア金沢』No3秋季号に「晴れの日の食ーエネルギーの発露ー」を書いた。
遠い記憶では、ラーメンのことばかり書いた気がしていたのだが、今、読み直してみると、若い気負いがあって面白い。
最後の部分で

現代の食祭フードピア金沢はどんな意味を持ちうるか。
…また百万石のお化けが闊歩してるわい。高級料亭と文化人?百万石の驕りと地方コンプレックスごちゃまぜじゃないか。こちらは搾取され続けてきた能登人の末裔だ。と、どうしてもそのあたりまで思いがいってしまうのである。…で参加しなかったかというと付き合いで加わった。
そこでは、文化人に対するミーハーにも徹し切れず、かといって場を無視して食の追求というわけにもいかず、
装置としての(伝統食行事の場に於ける)住職・神主にもなれるはずもない文化人の存在意味に思いを巡らして疲れた。
さよならパーティで祭り太鼓が聞こえてきたとき、疑似体験とはいえホッと和みを味わってしまったあの祭りに対する思いが、食祭りを歌うイベントでどう本来の祭りと距離を縮めていきうるのか、にやはりこだわってしまう。
現代の祈り、それぞれの場に集う人々の願いの地平に応えうる質が見えてくるまで見守りたい。
これはフードピアにかかわらず、食文化すべてに対するささやかな問いなのである。

と書いている。

主催者および編集をしていた出島二郎氏は、よくこの文を載せたものだと思う。
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1986(昭和61)年11月10日刊
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目次pdf


「ささやかな問い」は、昨日の松任での食事は別として
出かける度に、コンビニでおにぎりとパンを買い、
どこかの海岸か山道でCDを聞きながらの昼食になっている。


ささやかすぎる…。