キリコ、宝暦杉ー柳田7月26日(火)

26日、ぶらりと能登散策に出かける途中、
能登町寺分・五郎左衛門でキリコを見つけた。
f:id:umiyamabusi:20110801224435j:image
右の杉は「宝暦杉」
その横の碑には「宝暦義民之碑」とある。


『柳田村史』昭和50年(1975)刊の年表(p1478)には、
「宝暦5(1755)加賀藩が正銀通用を停止し、仮銀札を通用させ物価が急騰した。前年に引き続き凶作となった。
同6年(1756)この年もまた凶作となる。米価一石銀二貫目となり、加賀藩成立以来の最高価格を示し、餓死者が続出した。
7月6日及び9日の両夜にわたり、五十里・久田・合鹿・本郷・天坂などの宇出津組下の百姓が支配十村源五を襲撃した。


同7年(1757)源五襲撃の首謀者として入牢の五十里村治兵衛・中斉村甚左衛門など7名は相次いで獄死した。
気候不順と虫害のために凶作となった。


同8年(1758)源五騒動に関する藩の事後調査で宇出津組下御収納米800石の不足が摘発され、寺分・五郎左衛門分などの肝煎が入牢した。


同9年(1759)前年入牢の寺分村勘十郎・五郎左衛門分村太郎次郎が牢死した。」


宝暦杉に関しては次の記載がある(p431~2)。
「十郎原村肝煎藤次郎、寺分村肝煎勘十郎、五郎左衛門分村肝煎太郎次郎は責を負って10月入牢することになった。藤次郎は老齢の故を以て息子が代牢したが、藤次郎の死去によって息子の代牢は放免された。太郎次郎は宝暦9年7月9日、入牢10ヶ月の辛労を経て終に牢死(法名、釈智海)した。勘十郎もまた相前後して牢死して果てた。
粟蔵村400石不足と、宇出津組下800石不足の両事件は完全に異質のものであり、その結末にも当然の差異がみられ、自若として縛につき、無抵抗のうちに牢死した肝煎たちの示した反骨は、すでに幕藩体制に対する抵抗のきざしとみることはできないだろうか。
勘十郎太郎次郎の両名が、入牢のため故郷からひきたてられるに際し、特に乞うところあって、生還も期し難い故郷の地に、涙ながらに植えて去ったという老杉が、今もなお200年余の星霜にたえて、無言の教訓を物語るかのように寺分村と五郎左衛門分村をつなぐ影田橋のたもとにあって、静かに流れ下る清流にその影をおとしている。」