今日は、「子月中旬第七日」。4月17日

今年最後の七尾鹿島坊守会で七尾へ。
歎異抄講義なのに、レジメを作っていて、
そうだ「子月(11月)中旬第七日」なのだ、と思ったところから、
勉強会では、越後から関東への親鸞聖人、
さらに山伏弁円の懺悔を通して「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」を考えた。


「子月中旬第七日」に何があったのか…

皇帝(諱・守成、佐渡院と号す)、聖代建暦辛未歳(1211)子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもって勅免、此時聖人右のごとく、禿の字を書きて奏聞し給ふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す

(『教行信証』化身土の巻、『歎異抄』、『御伝鈔』)。
すなわち、今日は
1207年35歳の春、越後国府にご流罪となった親鸞聖人が5年後にご赦免になった日なのだ。
天皇も公卿も感嘆したのは、「禿の字を書きて奏聞」なさった愚禿の名告りにある。
「禿」を姓となさったのは、「已に僧に非ず、俗に非ず」の故だったことによる。
僧(権威)でもなく、俗(おもむくまま)でもない名乗りの尊さ。
それが「本願海」「群生海」「海一味」「大宝海」「大智海」(以上『正信偈』)と通じ合う越後の「海」があり、そこに生きる人々の在る地で「なほしばらく在国し給ひ」なさろうとお思いになった(であろう)節目の日。