「諸岡窯〈もろおかがま〉」ー珠洲焼ー

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諸岡香演さんが住職になられたのが平成3年。


この年の3月11日。
香演さんの父上の葬儀が営まれた。


私の父が導師をするはずだった。
ところが父は風邪の熱が下がらず、
七尾中学校時代の同級生である
神野さんが経営する恵寿病人に検査入院していた。


御仏供米をもって香演さんと総代の方が、いわゆる二人使いでおいでになり、
私が導師をするように依頼された。
住職をさしおいて導師は出来ないと、
固く辞退した。


外に対しては、
父は風邪気味で検査入院している
というさりげない話だったのだが、
お医者さんの説明では
長期入院になりそうだとのことだった。


学校…クラブ
町史など、
働き盛りであっただけに
それぞれを精一杯抱え込んでいた。
そこへ
時々の見舞い
お寺…
を重ね合わせていくのは無理だ
と思わざるを得なかった。


それで
家族しか知らないことだったが、
3月1日付けで県教委に退職願を出していた。


19年間の教員生活の後始末、
期末試験の採点
卒業式
入試、
などの中で、
やったことのないお寺の導師が出来るはずもなかったのだ。


その11日の朝に、
父が息を引き取った。



だから、諸岡香演さんとは
一緒に本山に行き、
一緒に住職になったのである。


諸岡さんが教育長時代の平成8年から、
教育委員会に属する珠洲焼資料館の館長になり( 4期8年 )、
公私ともに、お世話になった。


私も、国際交流員に日本語を教えてくれ
と言われれば教えたし、
ボランティアガイドでは幹事になってもらったり
しょっちゅう行き来が生まれた。


そうして、
お参りごとに、
何かあるごとに、
できたてほやほやの
珠洲焼をいただいた。


去年の11月18日、
西光寺さんの報恩講満座では
例年のごとく、
お互いに声を張り上げた。


あの時、香演さんは、今年は声が出にくかった…
来年は…とおっしゃっておいでた。
その時も、おみやげに珠洲焼をいただいたはずである。


そろそろ、「諸岡窯」を立ち上げないと…
いやーまだまだ…
時々、私は、「諸岡窯」をいい、
香演さんは、まだまだ、とおっしゃっていた。


素晴らしい作品群だけど、
昭和51年に珠洲焼が復興して30年余、
その時から心血を注いできた方が数名おいでるのだし
資料館が出来てからでさえ今年は20年目。
7年目の諸岡さんが
まだまだ、と、おっしゃる気持ちは、
よくわかっていた。


11月23日。
門徒の方々と本堂雪除けテント準備をしながら、
報恩講の頃から少し熱があって、と、門徒の方々に話され、
検査入院。
間もなく県立中央病院に移られた。


そして
12月21日早朝…
いきをひきとられた。


昨日は、
満中陰法要。


葬儀に引き続き、導師( 調声 )

昨日は、
多くのご親戚、門徒さんの前で、
法話もさせていただいた。


お斎の時、
奥さまが、


住職の最後の作品ですと、
珠洲焼を記念品としてお配りになられた。


最初の写真が
その作品である。


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諸岡さんからいただいた
珠洲焼…
どこに置いてある…?

今朝、回って写真をとった。

写真は、
今年の正月飾り・食い積みとともに用いたもので、
普段は仕舞ってある。

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私にとっての「諸岡窯」作品群…

まだあるそうだし、
コーヒーカップ、湯飲み茶碗なども
相当いただいている。


窯印を見ると
つい最近「モロ」から、
角印に変えておいでる。


これから「諸岡窯」への
はずじゃーなかったですか…。


今日は飲むしかないなァ。

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