夏秋入り混じる9月9日、函館浄玄寺開基・12世圓祐弟円空

8月28日の新聞記事によれば、9月9日の今日、札幌に飯田の人々が80人ほど行っているはずだ。
一度取材を受けたNHKでは、今日、BS2で、長時間に亘って石川・能登を放映しているはずで、それに合わせて、蛸島では1日早いがキリコを担ぎ出すといううわさも聞こえてくる。

文化人は、重陽を意識しておられる日なのだろう。


昨日の夜は、秋の虫がギャーンと聞こえるほどに鳴きまくっていた。
さっきはミンミンゼミ…。
夏と秋が入り混じっている。
花も次の写真のように乱れ咲き。
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珠洲と北海道ー函館・浄玄寺ー

ところで、札幌だが、滅茶苦茶忙しかった先月27日の、夕刻から夜にかけて、新聞社から電話が入った。
北海道と珠洲の関係を問う電話だった。
函館志海苔遺跡から、珠洲焼に入った大量の銭が出土している。
当寺の関係者で、少なくとも18世紀半ばには函館で浄玄寺というお寺を開いている人がいる。
18世紀後半から、小樽、江差、函館、羅臼奥尻島などへ渡っている人々の記録がある…
などをお伝えした記事が、次の写真記事中の

肩書きー西山郷史さん(年齢)によると、中世以降函館や奥尻島など北海道の各地に能登からの移住者が相次いだ。特に…

となって翌日載っていた。
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新聞記事(PDF)

中世から相次いだは言い過ぎだが、
中世には少なくとも珠洲焼は運ばれている。

それで、北海道、本州交流史を、確認のために文献であたってみた。


函館浄玄寺はかつて、寺院名簿などで調べたことがあったのだが、分からずじまいだった。
あらためて、函館市史を見ると、
なんと大谷派函館別院の元の名が「浄玄寺」だったとある。
その当寺の弟が函館別院を開いたとある宝暦の頃、
それまで交易の中心だった近江商人が退き、
能登の村山伝兵衛や江戸商人が函館に入り込んでいる。
地元函館での浄玄寺開基伝承は違っているようだが…、
ええ!!
浄玄寺が別院の前身…だった、だ。


この話は置いておいても、
札幌に飯田の山車が招かれたのは、昔からの北海道とのつながりであり、
それにコメントした者としては、そのまま放ってもおけない、と思った。
それで、交流史と当寺の記録(飯田と北海道に関する唯一の資料)をまとめ、
町内会副会長で、きらり珠洲の会員でもあり、幼い頃からの仲良しである友の店に持っていった。
細かいことは無視しても、ともかく、古くから珠洲と大いなるつながりがあった、
そのデーターだ、と渡してきたのだ。