鈴木大拙(貞太郎)の珠洲

英訳・教行信証鈴木大拙について書いた(4月5日)。
鈴木大拙の記事

その鈴木大拙明治21年8月から同22年1月にかけて飯田小学校高等科の英語教師として赴任していた。


わたしが知っているのは、兄元太郎が蛸島村小学校の校長であった関係で蛸島・畠山家に下宿していたということだ。
これは西村恵信氏の著書に手紙の写真があって気づいていた。
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畠山家とほど近い(200㍍くらいか)蛸島光行寺の英厳友氏に対し、
手紙に「仏教も哲学も上手に候」と私淑していた様子が記されている。
畠山家~飯田は約6キロ離れている。
歩いて通っていたのだろうと思っていた。
 

手紙の差し出し住所は畠山方なのだが、「上野」という名もあがっていた。
その家は兄の下宿先?、
あるいは、まず上野家にいてあとで畠山家に移ったのかも知れないなどとも想像を巡らしていた。


29日に新聞社さんが来るというので、
その日の午前中に曖昧な点について調べた。
畠山家と上野家の関係は、永松関さんがお書きになった
蛸島の移り変わり」で氷解した。
藩政期畠山家は上野屋を名乗っており、
昭和10年頃までウエンニヤサマと呼ばれていたとのこと。
光行寺も上野光行寺、あるいは上野山光行寺といい、畠山家・光行寺のすぐ後ろにある小山が、
かつては上野、あるいは上野山だったのだろう。
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大拙が散歩した海辺にある「山王の森」


ところで、新聞社さんと話していたら、飯田でも富田という家で下宿していたとのこと。
そういうことも含め、分かったこと。


まず、蛸島畠山家の浜側で下宿か間借りしていて、まもなく畠山家に移ったらしい。
飯田では、町の中心、大町の某家が下宿先だった( わたしの所から200㍍。昭和20年には現在住んでいる方がお住まいになっているが、明治期には富田家があったのだろう )。
そして、飯田小学校は、明治21年に、かつて「飯田東映」があったところに建造されている。
大拙の下宿先など

鈴木大拙と栃平ふじさん

それから59年後、大拙77歳の昭和23年、
大拙は『妙好人』という本を出版する。
その妙好人の最初に、珠洲市宝立町柏原の「栃平ふじ」さんを紹介している。
「農家の一婦人(53,4歳)」と書いてある。


栃平は中世からの名〈みょう〉名で、一帯には何軒も栃平家がある。
ふじさんは、どの家の方だったのか?
『宝立異聞』(中島吉正著)によれば、
ふじさんは昭和41年79歳で浄土にお帰りになっておられる。


このようなところで妙好人の日々を歩まれたのだ…を知るために、
せめて付近の雰囲気を知っておくことができたら、とたずねていくと、
ふじさんのご子息にお会いすることが出来た。


ふじさんの信心表白のうた・文(多分、大拙紹介以降)にも出会えた。
感激!
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この本は昭和51年の第2版


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ふじさんの筆跡。 
  

記者とカメラマンがこちらにおいでにならなかったら、
出会えないままだったのだろう。

 

 ※内容、写真は記事のじゃまにならないように気を配った(つもり)。


【追記】6月1日(木)
 今朝の新聞に記事が載っていた。文章力はさすが…。視点が違うので、内容にはフーンと頷く。
 カメラマン氏は、シャッターチャンスを狙って日が落ちるのをねばり強く待った。おお、いい光景…バシッの写真ではない。こちらに対しては、ウームと唸って、見る。
大拙の記事