7月31日(日)
寺伝に羽咋弥公の後裔 僧となり、延暦年中羽咋郡千石村に真言宗西光寺を建てしが延慶3年真宗に転じ 慶長年中さらに其の大谷派に属せり。
其の後金丸に来住し、天文七年復た今の地に転ぜりと
とある。
西光寺さんの目の前は七尾線。
近くに能登国33観音巡礼札所第7番柳田光泉寺があり、そこの御詠歌は
「補陀洛の風に浮世の雲晴れて、影澄み写る柳田の月」であり、
邑知潟の景は観音浄土・補陀洛世界と意識されていたほどの絶景であったらしい。
西光寺も比叡からの琵琶湖を想わせる「湖景山」であり、特に月澄み渡る光景の素晴らしさが想像される。
この一帯の真宗7ヶ寺の前身は泰澄建立の仏生山天平寺(観音寺)であり、金丸天平寺は札所第18番になっている。『能登国三十三観音のたび』から引用する。
※「ぶらりスケッチ」は上陽子氏執筆
西光寺を含む金丸七坊は眉丈山にあった。秀麗な山なみには本州最後の朱鷺が生息していたことで知られる。
この西光寺はまさに眉丈山系の中心地にあり、かつて12組門徒会の講師をしてたときここが会所だったので、境内を散策したとき朱鷺に関する句碑があったことが気になっていた。その時は草に碑が埋もれている印象で、朱鷺の句碑があっただけの記憶なのだけれど、この日は時間も充分あるので、じっくり碑を見ることが出来た。
どなたがお詠みになったのかは、前坊守さんが調べておられたので、一応ではあるが対応させていただく。
句碑の建つところは朱鷺塚といい、昭和49(1947)年3月31日、「蟻塔会(鹿島路句会)」の方々によって建てられた。
私ごとではあるが、昭和49年は初任・羽咋工業高校3年目でその4月に宇出津高校に変わっており、間借り・下宿生活を終えた最後の記念すべき時だった。バブルの絶頂期に向かう頃で、碑が建てられたのも世の高揚期と関係しているのかも知れない。
能登に生息する最後の朱鷺が捕獲され、佐渡に移送されたのは昭和45年1月のことだった(『能登のトキ』村本義雄著)。
碑が建てられたのは、朱鷺の鳴き声が眉丈山麓に澄む人々の耳に残っている頃だったのだ。
花吹ふき
顔ふく
朱鷺の 声しのぶ
鹿秋(北野友次郎)
夢の鳥
トキ棲み
絶えて
月 虚し
紅果(塩田親雄)
※「月」の文字が三日月となって句を照らしている。
その
むかし
朱鷺すむ
山の
松時雨
呂秋(備後徳次郎)
「朱鷺塚」 鐘楼手前
※正確な、句の読み、作家との対応は今後に…。
千里浜なぎさドライブウェイ・万葉歌碑
鹿島路へ向かう前に、なぎさドライブウェイによった。
一時期、ゴミ捨て目印ぐらいに埋もれていた「万葉歌碑」が、奇麗に佇んでいるのを見て、しばし感傷にふけった。
向こうの山は能登の熊野とでもいうべき宝達山。気多を始め宝達山の遙拝地は多い。
碑面 趣参気太神宮行海邊之時作歌一首
辻乎路可良多太古要久禮婆波久比能海安佐奈藝思多理舩梶母我毛 家持
(志雄道から直越え来れば羽咋の海 朝凪したり舟梶もがも)
側面 羽咋市郷土研究会 昭和三十七年十一月建之
西仙関氏著『ふるさと紀行 能登の家持歌碑めぐり』が詳しい。
車、釣り人、泳ぐ準備をしている人など周りは賑やか。だが、どうしても車種・NO等が写ってしまうので、海鳥の寄る来る渚、と鳥に代表してもらった。
鹿島路でのお話を終え、ズー―と気にしていた金丸~上棚道を車で走った。
金丸天平寺時代の修験の道だろうし、くねくねと細い道には古い時代の足跡もあるのだろうが、今となってはひたすら狭い一本道が延々と続くのみ。
この道を走りたかったのは、羽咋市白瀬豊財院の重文三観音(聖・馬頭・十一面)が
上棚近くの矢駄観音堂から元禄元年に移っていることもあって、この山道を気にかけ続けていたのだが、
今年50回忌を営んだ金丸から嫁いだ義理祖母の関係者を調べていて、祖母の妹が山道を越えた上棚に嫁いでいたことを知ったことが大きい。山を隔てていて遠いとはいえ、金丸・上棚は隣村なのだ。
車の中は涼しいとは言え、日差しが強く日に焼ける。
29日~31日のあちこち巡りは、ちょっとした脱水状態となり、
疲れた。