新木榮吉先生記念碑(芦城公園)、倶利伽羅、石の木塚、静照寺さん、(能美市ふるさと研修センター「さらい」)、仏御前の里、小矢部称名寺さん、氷見~羽咋

倶利伽羅の朝焼け 4時半。

29日(土)。暑い中での定例勉強会を終え、30日能美市に向かうため、倶利伽羅に宿を取った。宿舎から見た朝焼け。

かつて調査した根上町とも関係があるため、旧根上町を通るコースで小松に向かった。

ここは石立・石の木塚。8時

 

新木栄吉記念(顕彰)碑

10時半から能美市ふるさと研修センター「さらい」というところで用事があるのだが、早めに小松へ向かったのは、芦城公園内に、「新木栄吉」氏の碑があることを知っていて、一度は実物に会いたいと思い続けていたのを、この機会に実行するためだった。

早く公園近くについたため、先ず車をどこに停めていいのか分からずあせり、なんとか公園に入ったのはいいが、ざーっと歩いてみても、パソコンで見た顕彰碑らしいものに出会えない。

公園を歩いている人に、アラキエイキチさんの碑はどこにありますかと聞いても、そう広くはない公園なので、お探しになられたら、と親切におっしゃってくれるのだが案内板も無く途方に暮れてしまった。

そこで、栄吉氏の姪御さんである元の教育長・矢原珠美子さんに電話し、場所を聞いた。

何度も歩いた場所に、それはあり、記念碑のある築山に珪化木の案内があるのに、「新木」の「あ」もない。

私が今まで出会った顕彰碑の概念を越えた顕彰碑だったのである。大きすぎて気づかないとでもいえばいいのか、次の写真の向こう側ブロックが全て「あらきえいきち」碑上部だったのである。

矢原さんが教えて下さった、本陣記念館前の道路右の、最初の築山がこのあたりである。奥の方にコンクリートブロック、レリーフのような物が見える。

側へ近づくと、次の3コーナーになっている「新木栄吉近年碑」に出会えた。

栄吉氏のレリーフを中心に、右に「新木榮吉先生記念碑」文、右は「昭和三十五年九月二十日」とある市の顕彰碑建設経緯?である。

顕彰碑には次のように書いてある(墨が落ちているためよめないところがある)。

 新木榮吉先生記念碑

  (四行略)

新木榮吉先生は誠に斯の徳行の士の典

型であった。先生は明治二十四年旧小松

町に生まれた 大正五年東京帝国大学を卒

業して日本銀行に入り 其の人物材幹は

模範として 年と共に重きを加え幾

多要職を歴任した後 日本銀行総裁に推さ

れ 時あたかも戦後の紛乱に方り 日本財

政経済の収拾 肝謄を砕き 辞任の後東

京電力の会長となり多難な斯界の経営幹施

に當り其の後選ばれて戦後初代の駐米大

使に任じ 其の徳風を以て米国朝野の信

頼を集め 帰来再度日本銀行総裁として

終始日本経済の良心復興の柱石とも称

せられる存在であった 其の景迎すべき

生涯は昭和三十四年病を以て東京の私第

に終った 世寿六十有七

 先生は若くして已に長者の風格が有り

身を持すること謹厳にして篤く道に志

し 敬虔な宗教的信念を以て 祖国と同

胞との為に献身的努力を竭し 而も終始

謙虚で 清楚人を薫ずるものがあった

誠ほど明らかなものはない 先生没後

日ならすして先す郷堂より追慕の聲興り

茲に是の生誕の地に記念の碑が建立せら

れることになった

太上は徳を立つという真理を深く後人に

感悟させるものである

 昭和三十五年九月二十日

  日本銀行総裁 山際正道撰文

新木榮吉の老後を描いたドキュメントエッセーに、妹・沖谷敏子著「葡萄」(小松文芸賞受賞作品・昭和55年3月「小松文芸」28号・後、沖谷敏子句集『外套』平成8年所収がある。)

※「敬虔な宗教的信念」ー元治元年(1864)年生まれの榮吉の母は、篤実な真宗門徒だった。30日北板津組役員(能美・小松)さん対象の講題を「妙好人(御同行)に聞く」としており、前々から御同行のもとで育った「新木」さんの顕彰碑を実見したいと思って朝早く公園を訪ねたのだった。

出典『石川県大百科事典』

土室山静照寺(徳久町)

研修までにしばらく時間があったので付近を周遊した。蓮如上人由緒寺。

仏御前の里

講演後に、「五逆罪」関わりで話した「仏御前の里」を通って、鳥越近くでおいしくお弁当をいただいた。ともかく暑い。

 

常説教場・小矢部市本町称名寺

真宗寺院(道場)の理想の一つを常説教場と考えている。お朝事にお勤めするご和讃について、毎朝よりかみ砕いてお話しする。蓮如上人はそのような日をお過ごしになったようで、「御一代記聞書」に、その様子が語られている。

常説教場は金沢に13説教場が有り、最後の説教場が閉じられたのが平成8年頃だった。

その後、毎日の説教を、金沢別院が引き継いでいたが、現在はどうなのだろう。

常説教場を調べていた頃、小矢部市称名寺が常説教場に近い働きをしている、ということを聞いたことがあった。

31日には羽咋市に用事があり、羽咋に宿舎を取っておいたので、小矢部の称名寺さんを見てこようと思っていたのを実行した。小矢部市役所すぐ近くのお寺で、町中であるため、駐車場からお寺へ向かうまで、どっぷり汗をかき、多分に脱水状況だったのだろう。へばった。が、願いがかなって、勿体なかった。

小矢部市本町称名寺さん。本町一帯は寺町で、寺院群の一帯だった。

例年なら、7月終わりに、夏休みを兼ね城端、井波別院へお参りに行くので、小矢部小矢部へ出向いた、という気分。向拝彫刻も見事。

高岡の友の家により、夕陽が奇麗な氷見~羽咋道を走らせ、羽咋の宿舎に入った。

31日朝焼け(4時半)。羽咋から宝達山方面。