千田一郎(一路)氏
5日にご逝去なさった。92歳。
冬季間冬の間、当家で下宿なさっており、お嬢さんも高校生時代、冬季間下宿していた。
色んな思い出があるが、
『源平盛衰記』に載る平時忠の和歌を烏川上流、伝時忠子孫・則定家近くに建てる時、祖父がやはり平家子孫と伝える若山大坊脇田家出身の山口誓子氏に揮ごうを依頼し、伝時忠歌碑を建立の中心になったのが千田さんだった。
平時忠歌
白波の
打ち驚かす
岩の上に
寝らえで
松の
幾夜
経ぬらん
山口誓子書
とある。
『伝説とロマンの里ー北能登の風土と文化ー』に、
『源平盛衰記』によれば、時忠は「白波の打ち驚かす岩の上にねいらで松の幾夜経ぬらん」と詠んで都を偲んでいたが…
と書いたように、「盛衰記」は「寝らえで」ではなく、「寝いらで」が一般なのである。
千田さんは、そのことを気にしておられ、この歌を指示した著名な研究者(川口久雄氏)に聞いたところ、当時は「寝いる」という用法がなく「寝らゆ」なので、そうしたとのことだったそうだ。
千田さんは、やはり納得ができないままだったようで、研究者の指示でこうしたのだと話しなさったので、書き留めておく。
ちなみに、私が昭和54年(1979)に某大学の学術研究に加わって西安に滞在したとき、通訳の方が、
この先(敦煌方面)へいった日本人は3人しかいない。
井上さんでしょう。平山さんでしょう。川口さんでしょう。
と指折りながら語ってくれた。その川口さんが歌碑の指導をなさったのである。井上靖、平山郁夫と並ぶ人が、この歌碑に関わっていたのもすごい話だ。
その時、千田さんとは、ほかで使われてなくても、盛衰記にありますよと盛衰記に従えばよかったのにね…と、ボトツキ合った気がする。
その後、千田さんは大きな存在になっていき、取り巻きも多くなっていったが、このことから、ずーっと誠実そのものの人柄を思って今日まで来た。
参考 山口誓子、寝らえで…などを使った授業試み