稲の種子名列記木簡ー七尾市矢田遺跡ー万行・矢田の歴史を貫く農業文化

3月28日石川県埋蔵文化財センター評議員会が行われ、資料を戴いた。

見ると七尾市矢田遺跡から出土した、稲の品種を書いた木簡について報告されている。

矢田・万行地帯は稲作文化の原点のようなエリアで、そこに種子名が列記された木簡が出土したとなると、万行遺跡の巨大建築も稲作との関係が問われてくるーと思う。

名産万行清水米、古い田の神行事など、

ものと生活の視点から、取り上げて見る。

 

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評議員会参考資料より。

 

万行遺跡

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万行遺跡    まんぎょういせき
指定年月日    :    2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準    :    一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県    :    石川県
所在地(市区町村)    :    七尾市万行町
万行遺跡は能登半島の中ほどの東側、日本海が入り込む七尾湾を望む標高6から10mの台地上に所在する。遺跡が営まれた古墳時代には、この台地の近くまで海が入り込んでいたと推測される。古代の七尾湾には能登の国津である香嶋津が置かれ、日本海側の海運上、重要な位置にあったことが示唆される地域である。
 この台地に土地区画整理事業の計画がおこったことから、七尾市教育委員会は平成10年度から発掘調査を進めてきた。その結果、弥生時代中期以降の竪穴住居跡や古墳時代前期の大型掘立柱建物をはじめとする数多くの遺構、遺物を検出した。
 注目されるのは、台地北端で、その東側に入り込んだ谷に面して確認された古墳時代前期の巨大な掘立柱建物跡である。柱穴は平面が方形に近い形あるいは楕円形を呈しており、規模は長軸で1m、深さ1.5m前後、柱間隔は平均すると4.3mになる。こうした柱穴が東西17.2mの間に6基、南北44mの間に11基、合計60基ほどが検出された。その東側にもほぼ同じ規模と配列の柱穴群を確認しており、西の建物から東の建物へと建替があったことも判明した。柱穴の配列状況から、1時期に3棟からなる倉庫群であったとする見解と、1棟の祭殿であったとする見解がある。倉庫群とすれば、東側に庇状のものがつく、梁間2間、桁行4間で床面積約150㎡のもの2棟と、梁間4間、桁行4間で床面積約320㎡のもの1棟で構成されたことになる。
 建物の周囲には、軸を同じくする2条の溝からなる区画施設も存在し、区画内部には広場も存在した。区画施設の周辺にも竪穴建物跡を検出しており、掘立柱建物群に関わる施設の一部であったと見なされる。なお、この時期の遺物は少なく、掘立柱建物群の性格を考える上で興味深い。
 大型掘立柱建物群の廃絶後には、幅1.2m、深さ0.5mの溝により、一辺22mの方形区画が作られている。溝の東側中央部は途切れており、この部分が出入り口であったとみられる。区画の内部には掘立柱建物の存在が推定でき、祭場あるいは居館といった機能が考えられる。
 万行遺跡では、古墳時代前期の大型掘立柱建物群と方形区画が確認され、中でも掘立柱建物群は古墳時代としては類例のない巨大なものである。その性格については検討の余地が残されているが、倉庫群とした場合、南北に3棟が整然と並ぶことになり、これまで古墳時代中期に知られていた建物配置が、前期までさかのぼることになる。いずれにしても、規模からみて能登地域を越えた政治勢力が関わった可能性も示唆され、古墳時代の政治状況や社会を知る上で極めて重要であるとともに、建物規模は建築史的にも貴重である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

文化庁 国指定文化財等データベース

 

万行 観音 清水 万行米

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能登国三十三観音のたび』西山郷史・上陽子著、NPO能登ネットワーク刊より

 

平成17年刊で、絶版になっていたこの本を、ある書店の店長をなさっていた春成睦子さんから、復刻して販売出来ないだろうか…と相談を受けたことがあった。

その頃、『妙好人千代尼』を執筆しており、続いて『とも同行の真宗文化』、『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化-』などを手がけていて、その話は立ち消えになっていた。

 

というより、店長さんは間もなくガンで入退院を繰り返されるようになり、たまにお会いしても、話を進める時間を持てなかったのである。

 

治られたら、三十三観音再刊を考える時がくるかも知れないと思っていた昨年9月18日、

突然、医科大病室からかけているとの電話があり、

もう書店では会えない…。お医者さんから11月までの余命だと言われた。とおっしゃる。

何、冗談言っているのだろう…と思ったのだが、口調は明るいものの、すぐに咳き込まれ、話すことそのものが苦しそうだった。

それから、時々電話で話す中で、本を読む気力がなくなった、とおっしゃってから間もなく、電話口(携帯の調子も悪かった)に出なくなり、かかってもこなくなった。

 

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化-』を出版した際、写真だけでも気分のいい時に見る? 送るよ…と、話せたらと思い、電話を入れた。

通じることは通じたのだけれど、電話口に出た人が、

彼女は前日に息を引き取り、今、葬儀を終えたところだ、とおっしゃる。

 

地元には身寄りの人がおいでにならないらしく、息を引きとられたのは11月22日、53才だったはずだと思うだけで、ご本人は口には出さなかったが、早くから病に気づいておられ、マスク越しで会話した記憶しかなく、お顔もはっきりと思い出せないままの別れだった。

 

そろそろ49日も終えたはず、ご遺骨はお墓に収められてはずだと、

評議員会の帰りに春成家のお墓をたずねた。

梅の花咲く中、お墓周りは綺麗になっていて、間違いなく、納骨なされているのだろう。

 

近くの矢田でねー…、米の種類を書いた木簡が見つかったんだって…。

 

春成さんなら、どんな反応を示してくれるだろうか…

そんなことを思いながら、しばらく手を合わせた。

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田の神と山の神が交替する矢田のタンカブサマ(田の神様・あえのこと)

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『図説七尾の歴史と文化』平成11年七尾市役所刊。

 

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北國新聞2000年(平成12年)11月6日

 

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同紙2000年(平成12年)11月19日

 

高山志郎さんの奥さんは清子さん。

能登教務所に勤めておいでた。

資料館長での記事になっているが、この時、私は住職9年目で能登教区・教区会副議長を務めており、町史調査、議会などで七尾へ頻繁に行っていた。

清子さんはベテラン教務所職員で、色んなことでお世話になり、昼食などもよく職員の方々と休憩室で共にしたものだった。そんな中での雑談中に、タンカブ様(田の神様)が行われていることを知ったのである。

 

田の神山の神の交替が行われている話は、あえのこと地帯も含めて、どこからも報告されておらないのに、高山さんから、より古い形ー日程も含めてーの田の神行事が行われていることを知らされ、驚愕した。

 

大変な話なので、さっそく市史調査を絶えず気にかけてくれたいた記者さんに知らせ、翌日の記事になったのが上記の「山の神と深い結びつき」である。

 

石動・七尾城山は水分の山岳で、田の神行事の本質は、高山家例の例からこそ、考察を深めていくことが出来る。

そこに、木簡が加わった。