石動山ー大字石動山集落の生活

8日に釶内に行く用事があり、石動山を仰いでドライブし、展覧会も見てきた

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1月8日11時。中島町横見からの石動山

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ふるさと創修館からの七尾城山石動山山脈

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鹿島町史民俗編執筆のため、冬の石動山集落を調査したのが昭和58年の暮れか59年にかけてであった。その頃飯田高校の教員をしていたので、冬の厳しい石動山を求めていったのではなく、天平寺と1、2軒の住んでおられた天平寺集落へ調査に入ることが出来たのは、その時期しかなかったのだ。編纂室の桜井さんと一緒に行った記憶があるが、もう40年近く前のことだ。”雪の広田家前”といったフレーズがボアーと浮かぶだけ。

現今の石動山、調査時の石動山、そしてそれ以前の集落の様子が写真で見ることが出来るというので、行ってきた。一枚一枚の写真が語りかけ、「石動山分校の歌」の詞に楽譜があったのでそれとなくハミングしてみた。

二番の歌詞 (作詞・作曲中村秀男)

能登の文化の発祥地 礎石にかおる百合の花 きれいな心 よい頭 強い体をみがくのだ

 

何度か調査その他で訪れた石動山一帯の光景が脳裏にひろがる…

 

石川県『鹿島町史』通史・民俗篇に書いた石動山集落の行事 執筆西山 昭和六十年九月刊

第4章年中行事と宗教生活 

第一節 年中行事  

石動山集落についてのみ、ピックアップする。

[二月正月の準備] 一月二十九日に搗く餅を「苦の餅」といって嫌ったのは、坪川・武部・石動山・小竹・東馬場・藤井・曽祢などであり、曽祢では、三十一日にも搗かなかったという。他地区では、余り日を気にかけておらず、その理由を真宗教義で説明したり(小田中)、逆に「苦に勝つ」(井田)、「苦を潰さんか」(最勝講)と敢えて搗く家もある。(一〇七八頁、以下略)
[繭玉]用いる木は、石動山がミズノ木。
繭玉とは、千切った餅の形が繭に似ているところから、養蚕の盛んな頃にそう呼ばれるようになったといわれるが、どちらかというと、稲穂の姿を表わしており、その形状に豊かな実りを期待したものである。西・原山・小竹では、それを示すように稲穂といい、石動山では、御花〈おはな〉といった。
[除夜の鐘] 石動山では、戦前に若い衆が頼まれて日澄寺の鐘を撞いた。
[宮参り・寺参り]元旦の朝に、蟻ヶ原・石動山では、古くから宮だけに参ってきた。石動山では、夜中に済ます人があり、女性は夜が明けてから参る。
[棚捜し] 二月四日は、「棚捜し」という地区(存江・西・坪川・久乃木・武部・井田・小田中)と「仕事始め」という地区(蟻ヶ原・石動山・尾崎・東馬場・藤井・小金森・曽祢)に分かれる。滝尾地区が大体の境で、北の方の地区では、お供えものを降ろして食べる日との意識が強い。「仕事始め」という地区でも、特に仕事があるわけではなく(曽祢)、祝い縄の大人版程度の仕事をした。蟻ヶ原・石動山では、山仕事や炭焼きを始めた。
[サツキ正月] 石動山では鍬などの農具形の団子を作り、鍋の中を鍬や朳〈いぶり・えぶり〉で混ぜる動作をした.中には蕎麦〈そば〉を打って食べる家もあった。
[二十日正月・寺正月]原山・石動山では、五十年程前にはすでに二十日正月と、言うだけの日になっていた。
[重ねの一日]どの地区でも、三月一日を重ねの一日〈ついたち〉といい、餅を食べてゆっくりと休んだ。
[春の山祭り]三月九日。山の神が、木の側〈そば〉に遊んでおられる(石動山)とか、木の種を「蒔〈ま〉かしゃる」(水白)といい、この日に木を切ると怪我をする(二宮)、特に「トモノ-木を切る道具-が危ない」(原山)などと言って気を使った。
[ネハン(涅槃)]三月一五日。石動山では、伊須流岐比古神社拝殿正面に涅槃図〈ねはんず〉を掛け、三蔵坊の広田家当主が僧侶代わりを勤めるお参りがあった。
一軒に二.三合の米を出し合い、五班のうち二班が当番になって団子を作ったが、その後、東と西の版で交替するようになり、日も三月九日の山祭りの日に移った.餅米・小豆・豆・粟を入れた赤飯を供え、五穀豊穣を祈った後にそれを参詣人が戴いた。同地区では日蓮宗日澄寺でも、同日に団子撒きが行われた。現在(※昭和五十八年ごろ)では、両者とも三月十日前後の適当な日に行われている(実施時間は異なる)。
[雛祭り]四月三日。原山や石動山では、あまりこの日を意識せず、蟻ヶ原では、昭和十五、六年頃に廃れている。
[江堀り・ハンカイコウ] 西の二十四日は、石動山の春祭りの日であった。古くは「石動山祭り」といい、団子を作って祝った。かつて近郷に名高かった石動山の祭りが、西地区に踏襲されてきた点で注目されるが、昭和三十年頃には四月三日(節句)に移っている。男達が総出で作業を午前中で済まし、昼に二升の酒と油揚飯〈あぶらげまま〉(炊き込みご飯)を食べて別れたものである。
[山見] 五月十四日。七尾大地主神社山王神社)青柏祭を見に行くこと。原山・石動山では、行く人を大目に見ていたとか、子供にせがまれた家ぐらいが行ったという程度であるが、ほとんどの地区では、「山見にも行かんと仕事しとるか」と悪口を言われる(小竹・東馬場)くらいに、こぞって出かけたものであった。
[サツキ]田植をサツキという。五月二十日頃を中心にして、六月五日の節句頃までにサツキを終えたものである。山間部では遅く、石動山では、五十年程前までは六月十八日頃までかかった。
[田休み]一通り田植を終えた時の休み。石動山では、田休みを「泥落とし」とも言った。
[煎菓子盆]七月一日(他市町村では氷室の節句という所も多い)。石動山では、休み日とし、蟻ヶ原では、虫送り祭りを兼ね区長宅へ集まって飲んだ。
[雨降り盆・雨乞い]田植えが終わったあと、雨が欲しくてたまらない頃に恵みの雨が降ると、雨降り盆(徳前・二宮・石動山)・雨降り祝い(西・最勝講・水白・福田)・雨盆(高畠・小金森・曽祢)などといって、一斉に休み日とした。雨乞いは、石動山大御前で祈祷を行ったり、三幅の雨乞いの掛け軸を用いた(石動山)。
[虫送り]石動山では、二十年程前まで、七月七日の午後二時から若い衆が「トコトコトントン、トントントン」と太鼓を打ちながら、焼尾地区まで回った。
[八月十三日から十六日] 「夜ハ仏前ニきりこトイフ灯籠ヲ吊〈つる〉シテ死人ノ冥福ヲ祈ル」(「郷土調査第二輯・風習思想篇」昭和十三年御祖尋常高等学校)とあるが、石動山では、キリコは金沢・富山側の行事であるといい、水白・小田中で、一軒ずつ吊った家の記憶がある程度で、一部の家の風習でしかなかったようである。
[盆踊り]八月十四日(坪川・久乃木・武部・井田・小竹)・十五日(坪川・武部・二宮・原山・石動山・井田・高畠・小金森)・十六日(坪川・徳前・石動山・井田・藤井)の三日間が中心で、三日間とも行われたのは、近郷の中心地区である。
[七尾の相撲]十一月三日、七尾愛宕山で光徳寺の満座相撲(お取越相撲・天長節相撲・明治記念相撲)が行われ、近郷から多くの人が出かけた。原山では、半分ぐらいの人が出かけ、蟻ヶ原では、山見ほどではないが、若い人も出かけた。石動山では、今も出かけ、井田では、男は相撲見物、女は法事参りという風であった。
[カリンテ・庭仕舞]稲を刈り終わるのをカリンテという。その日は、里芋を小豆で炊いた芋のイトコ汁(坪川)、ボタ餅(芹川・石動山・最勝講・水白・尾崎・福田・高畠・小金森)、赤飯(曽祢)、刺身(小金森)などで祝った。
[バンモチ]田んぼの収穫後によくバンモチが行われた。石または米俵を担ぎ上げるもので、坪川・久乃木・武部では米俵を用い、石は聞いたことがあるという程度である。石動山・最勝講(四斗・五斗・一石)・福田(四斗・一石)では石を用いた。運動会の競技にもなったが、大正初め頃(曽祢)、大正終わり頃(存江・久江・福田)、昭和初め頃(久乃木・武部・石動山)には行われなくなった。
[冬の山祭り]  十二月九日は、冬の山祭りの日で、春の山祭りとほぼ同じ伝承が残されている。二宮ではこの日を田の神様ともいう。武部・芹川・蟻ヶ原・石動山では、春より秋の山祭りを重視してきた。
[訪れる人々・芝居]  福俵を持った人が回ってくるのも正月の風物詩の一つで(存江・徳前・蟻ヶ原・石動山・最勝講・久江)、万歳師のようないでたちで、歌の拍子に合わせながら小さな俵を各家の座敷の中へ投げ込んでいった。石動山では今でも行者がしばしば訪れる。

 

第二節 祭礼行事
[春祭り概観]四月二十四日(石動山)。蟻ヶ原では石動山と同日の二十四日に行われていた。
石動山では、昭和三十年頃まで盛大に行われた。幟は、鳥居の下と高に各二本、焼尾地区の高と宝池家の前に各一本の、計六本を立てたが、後に四本になった。「〽伊勢の太夫様、春出てござる、春は日もよし日も長い」など伊勢音頭を歌いながら御輿が練り歩き、これを「オネリ」といった。中入りは二か所であり、ゴマをふった握飯を食べ、酔にまかせて踊ったり跳ねたりした。その頃は、夜中までかかり、焼尾地区へも春・秋祭り共に御輿が回ったことがあった。ここでも、御輿が出ることを「ゴコウな出る」といった。
[秋祭り概観]  十月二十四日(石動山)。蟻ヶ原・久江原山分はかつての石動山と同じ十月二十四日に行われた。石動山では、ヨソブリ・獅子殺しなど七種類の獅子舞があり氷見の十二町から習ったと伝えられる。

三 特殊祭礼
[開山祭]一一七三頁
石動山の開山祭は、泰澄大師の御霊祭りと称され、かつては、毎年七月七日に泰澄開基と伝えられる宝池院(明治以降は宝池家)で行われてきた。祭りの日に、子供達が宝池家へ笹餅をもらいに行ったものだという。大正十年に伊須流岐比古神社が神饒幣帛供進神社に指定されたのを機に、石動山区による祭礼となった。信仰の中心はイワシが池の霊水にあり、この水は四百四病に利くといわれ、特に氷見の灘浦地方の大敷関係の人々の厚い信仰を集めている。祭りには大御前に灯明があがり、多くの参拝者があったといい、灘浦を守る霊地としての石動山の影響は絶大なものがあった。一升ビンに池の水を汲んで神前に並べ、御祓いを受けるが、これを「お水取り」という。隆盛を見たのは、三蔵坊の広田まさき氏によって神託が広められた明治三十年代頃からといわれている。現在は、午前十一時から天平寺で法事が営まれ、午後から神社で開山祭の神事が行われる。この時、山開きの祝詞・水分神への祝詞・開山泰澄大師への祝詞があがる。近年、鹿島側からの参詣者も増え、鹿島町でも、町を代表する行事として宣伝に努めている。この日に地区の虫送りも行われていた(本章第一節参照)。
[その他の祭り]
石動山との境界争いに勝った日を記念したという蟻ヶ原のクジョウ祭り(十月十一日)もあった。

第三節 宗教講と民間信仰
二 在所御講
石動山 主だった家を順番にまわるオコサマがあり、子供達が容器を持っていくと、おかずを入れてくれた。必ず、その家で作った豆腐と小豆の御汁がついた。在家報恩講をオシッチャあるいはゴマンサイといい、決まって十二月二十五日に営まれていた。在所の一軒の家に集まり、大坊主様(導師)の「ひっぱったお経」に唱和するのである。子供達は、煎菓子・豆・蜜柑・数珠状にした栗・串柿などを袋に入れ、砂糖・飴を混ぜたゲンコツオコシを持って、年寄りに手をひかれて集まったものであった。卵やカタクリと合わせた山芋もよく持っていった。御伝紗(親鸞伝絵)の第一段が読み上げられ、九時から四時頃まで営まれた。この規模のものは、昭和三十年頃にはなくなった。
 
四 民間信仰
[観音信仰]  石動山は、本社に相殿として本地観音菩薩の白山社があり、能登国第九番札所として名高い。なお、石動山については、『鹿島町史』石動山資料編(昭和六十年度刊行)で詳しく述べられるので、ここでは省略する。
[地蔵信仰]  鹿島町には、約三十体の地蔵がある(石動山にも相当数の地蔵があるが、現在では信仰の対象にされていないので省く)。

 

 

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